とはいえ杜氏は元来ヘビ毒の専門家で、米陸軍に生物兵器研究で協力する立場にあったものの、サリンなど化学兵器分野にはその道の専門家が別にいた。

「結局、軍を通じてその専門家に連絡をつけ、軍に『日本の捜査機関の要請に応じて協力してもいいか』と確認したところ、軍は『検討する時間をくれ』という。軍事上の情報という性質上、数週間単位で待たされるものと思ったが、その翌日に『OK』との返事があったので、さっそく専門家から入手した30枚分の資料をFAXで警察庁に送信した」

後に「松本サリン事件」と呼ばれる松本市で起きた有毒ガス事件の翌日、現場近くの池付近で採取された植物の葉は一部が変色していた(写真:共同通信社)

 これが奏功して、翌1995年3月の地下鉄サリン事件などを含む一連のオウム真理教関連事件はその後、教団幹部らの逮捕につながり、公判を通じて全容解明にいたった。

94年7月3日、記者会見で「ガスはサリンと推定した」と発表する長野県警の浅岡俊安捜査一課長(写真:共同通信社)
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オウムによる犯行を確信しながら検挙に手をこまねく

「ただ1995年元日には日本の一部新聞報道が、警察が当時オウム真理教の拠点だった山梨県上九一色村の土壌からサリン残留物を検出したことを独自に報じた。その後オウム真理教側はサリン製造の証拠を隠滅しようとし、廃棄しきれなかった分が同年3月の地下鉄サリン事件で使用された。警察、メディアの足並みがそろわず、捜査中に新たな化学兵器テロの発生を許したことになる」(杜祖健氏)

松本サリン事件を回顧する杜祖健氏=台北市内(筆者撮影)
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 杜祖健氏の協力もあり、警察は早い段階から密かにオウム真理教による犯行と睨み、上九一色村にある教団施設周辺の土壌からサリン残留物を検出していた。だが、その情報が報道機関にすっぱ抜かれたことで教団側に対策をとる余裕を与え、警察が予定していた教団本部施設への一斉捜索の前々日に、地下鉄サリン事件を起こさせてしまった。

「そもそも日本の警察や自衛隊に生物・化学兵器に対する研究や備えがなかったことも含め、テロ、有事に対する日本の警戒心の薄さを露呈した事件でもあった」

 事件発生30年の節目に、杜氏は改めて事件当時振り返り、当時抱いた感想をもらした。