楫取素彦の薩長融和に向けた提言

 さて、先ほど述べた三条からの申し出に対し、慶応元年5月7日に返礼の使者に指名された楫取素彦は、意見書(日付未詳、『楫取家文書』2)を藩政府に提出した。その中で、長州藩の方針をどう伝えるべきか、自身の意見を次のように述べた。

 三条は九州渡海後、手厚い庇護を受けた薩摩藩に信頼を寄せているが、これは心変わりをして、盲目的にそうしているとは思われない。薩摩藩の国論が朝廷のために尽力しようとしているのか、あるいは一時の権謀によって、人心を服従させようとしているのか、直接三条に確認するのが得策である。

 そして、三条から「彼藩議論慥なる御見込も御座候はゝ、御国に而も此迄之宿怨は相釈き、順聖公(島津斉彬)御素志を績候薩藩と相心得候様仕候而も苦しかる間敷候」と、薩摩藩の変化は間違いないとの言質を得た場合、長州藩においても宿怨は忘れて斉彬の遺志を継ぐものと心得ることを強く求めた。

 続けて、三条と今後も志を一つにすべきであり、薩長連携もその延長線上に考えるべきである。また、三条より藩主毛利敬親・広封父子に対して、薩摩藩に対する態度を改め融和することを勧告してもらい、さらに三条から、薩摩藩には朝廷のために一層尽力するよう督責してもらうことを提案する。

毛利敬親

 あくまでも、三条を媒介とするとしながらも、楫取は薩長融和の可能性を模索することを藩政府に提言したのだ。これは木戸孝允の意見にも通じる、岩国・吉川経幹に頼らない宗藩としての独自の薩長融和論のスタートとして、極めて重要な発言と見なせよう。

 一方で楫取は、薩長連携は長州藩存亡に関わるとして、深慮遠謀してあたることも求めた。さらに、藩内が混乱している現状での薩長融和への周旋などは、大きな反発も予想されるため、藩要路のみの内密とすべきことを付言している。この段階では、薩長融和に拒絶反応を示す藩内反対派に、配慮せざるを得ない状況がうかがえる。薩長融和は、こうした中岡・楫取ラインによって始まったのだ。

 次回は、中岡・楫取ラインにも勝るとも劣らない、もう一つの中岡・木戸孝允による中岡・木戸ラインについて詳しく説明し、この両ラインが結合していく過程を追っていこう。