三条実美の使者・中岡の長州藩への周旋

三条実美

 中岡はその後も、内田や黒田清綱といった薩摩藩士や、福岡藩士筑紫衛・対馬藩士多田荘蔵らとの接触を繰り返したが、慶応元年3月28日に五卿の使者として長州藩(および長府藩)に向けて出発した。

 4月6日、中岡は長州藩の世子である毛利広封に謁見、この間の五卿の動静を詳しく述べ、前年までの待遇に対する御礼を述べた。同時に、長州藩の動向を尋ね、最大の要件であった薩長融合について、強く勧めたと考える。

 とは言え、いくら三条実美からの使者であったとしても、世子自らが一介の浪人に対面を許す破格の厚遇を示したのは、中岡が薩長の連携に関わる使者であったためであることは論をまたない。なお、中岡は長州藩滞在の間に、山県有朋・広沢真臣・大村益次郎・井上馨・伊藤博文らと会見しており、長州藩要路とのパイプの強さを確認できる。

もう一人のキーマン、楫取素彦とは何者か?

 ここで、中岡慎太郎とともに、薩長同盟の起点に深くかかわった楫取素彦(小田村素太郎)について、簡単に紹介しておこう。

 文政12年(1829)、楫取は萩の藩医・松島家の次男として生まれた。兄は尊王志士として知られる松島剛蔵である。儒者・小田村家の養子となって、小田村伊之助と名乗り、藩校の明倫館で司典助役兼助講として勤務した。その後、一時江戸藩邸勤めになったが、安積艮斎に師事し、また、吉田松陰と運命的な出会いがあったのだ。そして、楫取は萩に戻ると、親友となった松陰の妹・寿子と結婚した。

 安政の大獄によって、松陰は江戸送りとなったが、その際に楫取は松陰から松下村塾の後事を託された。しかし、藩主の側近に抜擢されたため、楫取は萩に留まることは叶わずに、国事のために東奔西走することになった。そのため、松下村塾の面倒を見ることは長い間、意に反して出来なかった。幕長戦争では、宍戸璣に随行して広島に行き、幕府側との交渉に臨んだ。慶応3年(1867)、諸隊参謀として出征し、新政府樹立に尽力したのだ。

 明治維新後、明治9年(1876)に群馬県の初代県令となり、製糸業や教育の振興などに尽力した。また、妻を亡くした2年後、明治16年(1883)に妻の妹である文(久坂玄瑞の未亡人で、美和子と改称)と再婚した。

 その後、元老院議官、明治天皇皇女の御養育主任、貴族院議員などを歴任し、松下村塾の塾舎の保存にも尽力した。大正元(1912)年、満83歳で逝去した。この楫取の存在も、薩長同盟の起点において、欠くことができないのだ。