五卿をめぐる中岡と西郷隆盛の会談

西郷隆盛

 ここからは、中岡慎太郎による薩長同盟に向けた動向を見ていきたい。第一次長州征伐時、中岡は福岡藩士(喜多岡勇平・月形洗蔵・早川勇)と協力し、薩長融和の周旋を開始した。元治元年11月晦日、早川とともに五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)に対して、薩長融和を提言したのが最初のアプローチとなった。

 五卿の長州藩領から大宰府への移転をめぐって、中岡は第一次長州征伐における幕府軍の中で、参謀格で参加していた西郷隆盛の真意を測る必要性を感じていた。12月4日、中岡は早川勇の従者に身をやつして下関から渡海し、小倉において西郷との面談を果たしたのだ。

 中岡は、長州藩が禁門の変の首謀者として3家老(国司信濃・益田弾正・福原越後)の首級を差し出したことから、毛利敬親の隠居、世子広封の家督相続による処分を求めた。さらに、五卿移転は征討軍の威圧に屈したとされることに難色を示し、解兵後の移転を提言した。

 それに対し、西郷は自身の範疇として、後者についてのみ、その実現に向けた周旋活動を行うと約束した。中岡はこの会談で、西郷が薩長融和に前向きであることを確信し、以後積極的に周旋することになるのだ。

 西郷は、吉井友実・税所篤を伴って12月11日夜に下関に渡海し、翌12日に月形・早川も加わって、諸隊幹部赤禰武人・中岡・中村円太、五卿従士水野丹後、対馬藩士多田荘蔵、久留米藩士真木弦らと会談し、西郷が解兵後の五卿動座を了解したため、諸隊との合意が成立した。中岡の西郷への入説は、こうして実現を見たのだ。

 次回は、中岡の薩長融和に向けた周旋が、これ以降、どのようなものであったのか、特に三条実美の使者として長州藩に派遣された経緯や目的を説明し、また、薩長同盟のもう一人のキーマンと言える楫取素彦を紹介し、彼が三条の薩長融和提案にどのように対処しようとしたのか、その実相に迫ってみたい。