「実話をもとにした」絶望的な物語を、作家は唯一無二の文学として遺し、26歳でこの世を去った。その波紋は台湾社会を動かし、中国、日本……そして世界へと広がっている。
13歳の少女への性暴力を描いた台湾の小説『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』(林奕含/リン・イーハン著、泉京鹿訳)が白水社より刊行されたのは2019年。実話をもとにした小説であること、その衝撃的な内容、美しい文章と巧みな構成、刊行の2カ月後に著者が自殺したこと……などが相まって、本国台湾はもとより、世界でベストセラーになっている。
>>【写真】『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』刊行の2カ月後に自殺した著者の林奕含(リン・イーハン)
性暴力を巡る日本社会の状況はここ数年で大きく変わった。故・ジャニー喜多川氏による未成年への性的虐待が報道されるようになり、性的グルーミング(大人が性的な行為を目的に子どもに近づき、手懐ける行為)という概念が広く知られるようになる一方で、権力者や教育者による未成年者への性的虐待報道が後を絶たない。
被害者たちが勇気をもって声を上げるそばから、その声をつぶそうとする声が上がる。そうした状況の中、今こそ読まれるべき小説として、白水社は『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』を手に取りやすいUブックス(新書版)に判型を変え緊急出版した。同書が投げかけるものとは──。翻訳者の泉京鹿氏に話を聞いた。
(聞き手/砂田明子、フリーランスライター・編集者)
『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』の内容
台湾・高雄の高級タワーマンションで暮らす13歳の房思琪(ファン・スーチー)と劉怡婷(リュウ・イーティン)は、文学好きの幼なじみ。二人は同じマンションに暮らす、50代の妻子あるカリスマ国語教師を敬愛している。その先生に、作文を見てあげると誘われ、一人ずつ先生の部屋に行くと、美しい房思琪は強姦された。「これは先生の君への愛し方」「わたしは君と同じ種類の人間だ」と言葉巧みに房思琪を支配する国語教師。「わたしは先生を愛さなければならない。そうでなければ、あまりにつらすぎる」と、異常な関係から抜け出せない房思琪。しかし、誰にも性被害を打ち明けられない房思琪は、次第に心身を壊していく……。
性とは何たるかをまだ知らない子どもが、性被害にあうとはどういうことか
──『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』は、台湾で25万部、中国で100万部を突破しているベストセラーです。台湾では、この本の影響で条例が修正注1されるなど、大きな社会的インパクトを与えたそうですね。
泉京鹿氏(以下敬称略) アメリカから始まった「#MeToo」運動が世界的なムーブメントとなり台湾でも広がったのは2017年秋、この本が出版されてから半年あまりのことです。残念ながら著者の林奕含(リン・イーハン)が亡くなった後でしたが、台湾をはじめとする中国語圏で#MeToo運動が広がった背景には、確実にこの本の存在がありました。
林奕含の命日には今でも毎年、台湾のみならず中国語圏の各地で追悼集会や読書会が開催されていますし、Netflixのドラマ『ふたりの私』、女性チャンネルLaLa TVで放映中の中国時代劇『花の告発~煙雨に仇討つ九義人~』など、この本からインスピレーションを受けたとされるドラマや映画が相次いで生まれています。「第二の林奕含を生まないために」という人々の強い思いを感じます。
注1:塾講師らがペンネームや芸名を使用することが許されていたが、台北、台南、台中など複数の都市で実名が義務化されることとなった。
──日本でもUブックス(新書版)の出版後、新たに批評家・文筆家の水上文さんやライターの武田砂鉄さんの書評が出るなど、注目が高まっています注2。単行本刊行時の2019年から5年間の変化をどのように感じていますか。
泉 単行本の刊行直後から、メディアの書評などでも少なからず取り上げていただきましたが、ありがたいことに数年の時を経ても熱心な読者の方がコンスタントに口コミで広め続けてくださって、日本でもじわじわと多くの方に知られるようになっていました。
作家の綿矢りささんが2021年に「今月買った本」として紹介してくださったり、大学の先生方が学生に勧める本として取り上げてくれたり、優れた文学作品としての評価がしっかり広がっていることもうれしく思っていました。
その後、小川たまかさんがSNSで言及してくださったのが2022年だったと思いますが、海外文学好きの読者や中華圏の文化に興味のある読者だけでなく、普段はフィクションよりはノンフィクションを好むという方々の間でも話題になっていたようです。
さらに、去年ぐらいから日本の空気が大きく変わってきたと感じていました。BBCの報道によって、故・ジャニー喜多川氏による性加害問題が報道されるようになったことも大きいと思います。グルーミングという言葉がよく使われるようになったのも、ここ数年ですよね。
性とは何たるかをまだ知らない子どもが、性被害に遭うとはどういうことか。旧ジャニーズ事件もそうですし、この小説でもそうですが、自分がいちばん大事にしている世界の指導者によって、思いもよらない世界に連れていかれてしまうから抵抗が難しい。日本ではなぜか長年ふたをされてきて、実態がよく理解されていなかった性犯罪の重さを、この小説を通して多くの人に知ってもらえるのではないでしょうか。
注2:『世界』(2024年6月号/岩波書店)に水上文氏の書評、毎日新聞2024年5月11日付朝刊に武田砂鉄氏の書評