医学部に入学後、文学部に再入学。文学を愛した著者の思い

──房思琪と劉怡婷は、「魂のふたご」と呼ばれるほど似ていますが、容貌だけが異なっている。見た目で女の子の運命が大きく変わってしまうことを、この小説は突きつけてもいます。それから二人が慕う“お姉さん”が、終盤に大きな役割を果たします。

 二人が「伊紋姉さん」と慕う女性は、房思琪と似た雰囲気の美人で、少し歳の離れた見目麗しい大富豪と人がうらやむ結婚をしているのですが、実はその夫からDVを受けています。一方、親友の劉怡婷は、房思琪に何が起きているか真実を知らないまま、先生に選ばれた房思琪に嫉妬してしまうんです。

 昨年、非常勤講師をしているある大学で、この小説を題材に学生たちにディスカッションをしてもらいました。そのとき学生の発表で、

「日本を含めてアジアの女性は男性から選ばれないのは不幸で、選ばれることこそが幸せだとして“選ばれる/選ばれない”の二項対立に押し込められがちだけど、実はさらに“選ぶ”という選択肢もあり、その選択肢を知ることができるのが教育であったり、時代であったり、家庭や社会の影響なのだということを意識した」

 という意見がありました。とても大切なことですよね。「選ばれる」のは果たして幸せなのか、ということもこの本は問いかけていると思います。

──本書に出てくる文学談義、中国の古典をはじめ、ドストエフスキー、ガルシア=マルケス、コンラッド、大江健三郎……には思わずうっとりしてしまいました。詩的で、独自で、古今東西の古典を礎にした優雅な文章がつづられます。苦痛や悪を描いているのに魅力を感じてしまっていいのだろうか、と自問自答してしまうのですが。

 著者の林奕含さんはうつ病に苦しみながらも医学部に入学した後、別の大学の文学部に入り直しています。文学へ思いは、並々ならぬものがあっただろうことが想像できます。豊かな教養をひけらかすのではなく、至るところに自然ににじみ出るような文章を訳すことは、本当に容易ではありませんでした。

 終盤に、〈裏切ったのは文学を学んだ人間ではなく、文学そのものだった〉という一説が出てきます。これは著者の実感であったのかもしれませんが、同時に、著者は文学を諦めていなかったと私は信じたい。このような物語を小説として遺したわけですから。

『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』(林奕含/リン・イーハン著、泉京鹿訳)

──ラストで〈忍耐は美徳ではない〉〈怒りこそ美徳〉にたどり着いた“お姉さん”の言葉に深く納得しました。同時に、声を上げられない中で、書くことで自らの主体性を取り戻そうとする房思琪への思いがあふれました。

 この本を通じて、著者は今まさに被害を受けて苦しんでいるかもしれないたくさんの房思琪に、「あなたは悪くない」と伝えているように感じました。

 少しでも今苦しんでいる人に寄り添って、そっと背中を押すことができればいいなと。そして、当事者ではない人たちにも、傍観者になることなく、何かできることがあるのではないかと考えていただけたら、訳者としてもうれしいです。

 単行本の刊行以来、私のもとにも作品を読んでくれた方からたくさんの手紙やメッセージをいただいています。とてもありがたいと思いつつ、これらの感想を著書に届けることができないことが何よりもつらく残念です。

 分かりやすいものが好まれる時代に、この小説は翻訳本である上に、決して分かりやすく書かれたものではありません。けれど、文章の美しさ、文学作品としての素晴らしさは読んでいただければ分かると思います。文学や教養の力というものに改めて目を向けていただくきっかけにもなればと願っています。

【林奕含(リン・イーハン)】
1991年3月16日~2017年4月27日
台湾・台南で名の知られた皮膚科医の娘として生まれ、幼少期から作文や数学で優秀な成績を収め、多くの表彰を受ける。高校2年のときにうつ病を患う。2009年、台北医学大学医学部に入学するが、2週間で休学。その後、3度の自殺未遂。2012年に国立政治大学文学部中国文学科に入学、3年生のときに再び休学。2017年2月に、デビュー作であり唯一の著作である本書を出版。その2カ月後に自殺。「これは実話をもとにした小説である」と本書に記していることから、台湾社会に大きな波紋を呼んだ。2017年、Openbook好書賞(台湾)、2018年、第1回梁羽生文学賞大賞(中国、広西省)を受賞。中国語簡体字、韓国語、タイ語、ロシア語、ポーランド語でも翻訳刊行され、200万部突破。今年5月に英語版が刊行された。

【泉京鹿(いずみ・きょうか)】
1971年、東京生まれ。フェリス女学院大学文学部日本文学科卒業。北京大学留学、博報堂北京事務所を経てライター、メディアコーディネーター、翻訳者として16年間北京で暮らす。主な訳書に、余華『兄弟』(文春文庫、アストラハウス)、閻連科『炸裂志』(河出書房新社)、王躍文『紫禁城の月――大清相国 清の宰相 陳廷敬 上・下』(共訳、メディア総合研究所)、九把刀『あの頃、君を追いかけた』(共訳、講談社文庫)など。大学非常勤講師。

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●厚生労働省が自殺防止のためホームページで紹介している主な相談窓口は次の通り
▽いのちの電話
(0570)783556(午前10時~午後10時)
(0120)783556(午後4~9時、毎月10日は午前8時~翌日午前8時)
▽こころの健康相談統一ダイヤル
(0570)064556(対応の曜日・時間は都道府県により異なる)
▽よりそいホットライン
(0120)279338(24時間対応)