「公共交通は黒字であるべき」は日本式 

 最も「稼いで」いるウィーンの市内交通ですら、運賃収入で賄う運営費用は、コロナ禍前でおおむね60~65%程度であった。先に述べた最西端のフォアアールベルク州ではわずか23%程度だ。本稿の後半や、連載中に詳述する通り、残りの運営費用は税金から賄われている。 

 日本では1970年代から「赤字ローカル線」が大きな問題となってきたことは周知のとおりである。1980年代に廃止されたり第三セクター鉄道に転換されたりしたことで国鉄やJRの手から離れた路線も多い。 

 また1990年代以降は整備新幹線の開業に伴って並行在来線が第三セクターに移管されたが、これも「営業主体であるJRにとって過重な負担となる場合があるため」(国土交通省)経営が分離されるもので、基本的に儲からないことが問題であるとの認識が背景にあるといってよい。 

 路線の廃止は、1987年の国鉄分割民営化ののち1990年代はやや小康状態が続いていたが、特に2000年代に入って制度の変更があって以降、地方部を中心に廃止された路線は多い。近年ではコロナ禍もあって公共交通事業者の経営が厳しさを増しているのは周知のとおりである。 

 要するに赤字が問題であり、公共交通は基本的に黒字でなければいけないというのが日本式の考え方だ。 

 そんな「苦しい経営」の話はオーストリアではまず聞かないが、上述のように税金で運営費用の大半が賄われるのだから当然である。ではしかし、なぜ多額の税金を鉄道やバスの運営に投入することがオーストリアでは正当化されるのだろうか? 

「公共」交通という名前が示す通り、オーストリアや欧州の国々では鉄道やバスは「公共の」乗り物であるとの考え方が一般的である。ちょうど、道路が公共のものであり、交通ルールを守る限り誰しもが自由に使えるのと同じように、鉄道やバスもきっぷを正しく買って乗る限り、誰しもが自由に使える。 

 ただし道路は土木インフラであり、設置してあれば誰でも使えるが、公共交通は線路やバス停を用意するだけではだめで、列車やバスを走らせないことにはサービスとして機能しない。 

 言い換えれば、道路と異なり、公共交通が「公共」サービスであるためには、予定された時刻表に従って列車やバスがきっちり走っていないといけない。「今日は始発駅で乗るお客さんがいないから運休しよう」などということは許されない。これは日本でも当たり前の感覚だろう。 

リンツを走る路面電車の停留所リンツを走る路面電車の停留所
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 この「予定された時刻表通りにきっちり走らなければいけない」という公共交通特有の性格は、公共交通にかかる固定費用が大きいことを意味する。鉄道もバスも、車両やインフラの調達や維持管理、人件費といった固定費用が大きい。 

 一方で、運賃が高すぎては、日常の移動に使い物にならない。運賃水準は一般に支払い可能な水準でなければ公共交通は機能しない。2~3kmの距離の初乗り運賃が1000円もしては電車やバスが日常では使い物にならないことを考えればわかるように、誰もが使うことのできる水準の運賃というのも非常に重要な条件だ。 

 これが公共交通が機能するための2つ目の条件である。やたら値上げをして費用をカバーすればよいという類のものではない。