撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

創作ないしは捏造された伝承も

 東京23区に古城を訪ねるシリーズも、いよいよ最終回。ここまで、23区内に意外なほど多くの城跡があることに驚いた読者もいるかもしれない。ただ、前稿で紹介したような怪しげな城跡伝承地も、実は23区内には多いのだ。中には「シロヤマ」の地名だけが伝わっていて、そもそも「シロ」が「城」に由来するのかすら、わからない例もある。

 怪しいというなら、梶原景時の館や城跡だとする伝承地は23区内だけでも3〜4箇所ある。同じ鎌倉幕府の有力御家人というのなら、比企能員や八田知家や安達盛長の伝承地だってあってよさそうなものだが、景時だけやたらに多くて明らかに不自然だ。なぜ、このような怪しげな伝承地が生まれたのだろうか。

 そもそも、歴史的な伝承というものは、一半の真実を含んでいる場合もあるが、後世に盛られたり、すり替わったり、こじつけられたりした場合も多い。中には、意図的に創作ないしは捏造された伝承もある。

石神井城と三宝寺池。石神井城落城にまつわる物語は、昭和になってから小説として創作されたものだ

 そうした誤伝や創作が起きた理由の一つは、江戸時代に盛んに行われた「ルーツ探し」にある。泰平の世が続く中で時間にゆとりのある武士や農民たちは、しばしば「ルーツ探し」に興じていたのだ。といって、古文書や正確な家系図があるわけでもないから、たとえば西股権兵衛という者が西股という村を訪ねて、そこに古い城跡があれば、祖先の居城だと合点してしまう、みたいな具合である。

 さらには、土地の所有権や用益権を主張するために、先祖代々の由緒を捏造する場合もあった。こうして、江戸時代にはしばしば「伝承」や「由緒」が盛られたり、すり替わったり、こじつけられたり、創作されたのである。とくに東京の場合、疑問な城跡伝承地が多いのだが、それには次のような東京=江戸特有の事情も手伝っていた。

 江戸は世界でも屈指の大都市であったが、武家人口の多い都市でもあった。幕府直参の旗本が住んでいたこともあるが、諸大名の江戸屋敷に地方から赴任している武士たちも多かったからだ。彼らの大半は、基本的にはヒマである。武士の本業は戦争だが、その戦争が絶えて久しかったからだ。もちろん、町人たちの中にも時間にゆとりのある者は多い。結果として、江戸は行楽需要の多い都市となった。

江戸は単身赴任の武士がひしめく都市だった。写真は江戸城桜田門

 そんな江戸市民たちが、さしたる費用もかけずに時間をつぶせる代表的な行楽が、寺社参詣だった。何かの御利益を求めて郊外の寺社に参詣し、ついでに蕎麦や団子でも食べて歩けば、半日たっぷり楽しめる。

 となれば、寺社の側も参詣客を呼び込めるような「名所」がほしい。そんな場合に効果的なのが、誰でもが知っている歴史上の有名人物にまつわる由緒だ。歌舞伎や物語に登場する有名な武将は需要があるが、江戸だから織田信長や楠木正成を持ち出すわけにはゆかない。かといって、家康公では恐れ多い(迂闊なことを言い出すと、お上に叱られる)。

 そこで、源頼朝・義経・弁慶・梶原景時、あるいは太田道灌あたりに人気が集まることとなる。都内に梶原景時の城跡が多いのも、前回述べた戦国期梶原氏の由緒や、「鍛冶」に関わる地名(鍛冶が原など)が、行楽需要の中で景時に結びつけられていった結果だ。

馬込城伝承地の萬福寺に建つ「するすみ」の像。つい写真に撮りたくなるかっこよさ

 こうして東京23区内には、たくさんの怪しい城跡伝承地が生まれることとなった。けれども、前回も述べたように、筆者はそうした伝承を無碍に否定して葬り去ろうというのではない。なぜなら、怪しい伝説に満ちているという現象そのものが、江戸東京という都市のあり方を物語る「資料」でもあるだからだ。

 大河ドラマや歴史小説と同じように、史実は史実、伝説は伝説として楽しめばよい、と筆者が説くゆえんである。

丸の内にある将門塚。大都市・江戸東京はさまざまな伝説に彩られながら発展してきた

[参考図書] 城についての伝承に様々な問題が含まれることに関心のある方は、拙著 『城取りの軍事学』(角川ソフィア文庫/電子版は学研プラス)をご一読下さい。