「長野“行”新幹線」という玉虫色の通称になった背景
3月16日、北陸新幹線が金沢駅から敦賀駅まで延伸開業する。
北陸新幹線は日本の大動脈でもある東海道新幹線が災害や事故などで不通になった際のバックアップという役割から、1970年代に東京─大阪間を北陸経由で結ぶ新幹線として計画された。
計画から実現までには長い歳月を要し、ようやく1997年に高崎駅―長野駅間が開業した。1997年に長野駅まで先行開業したのは、翌1998年に長野五輪の開催を控えていたことが大きな理由だ。東京駅―長野駅間を新幹線一本で移動できるようになれば、首都圏から多くの観戦者を期待できる。そんな政治的な思惑があった。
長野駅までの部分開業を果たした一方で、肝心の北陸3県に新幹線は到達しておらず、長らく新幹線は長野駅発着だった。そのため、北陸新幹線という名称は紛らわしく、長野県を中心に“長野新幹線”と呼称するムードが支配的になっていた。
しかし、長野新幹線という呼称が定着してしまうと、長野駅以遠が延伸されずに終わってしまう可能性も否定できなかった。そんな懸念から、富山・石川・福井の北陸3県は北陸新幹線の呼称に固執した。
長野新幹線を主張する長野県と北陸新幹線を主張する富山・石川・福井の北陸3県は、互いに主張を譲らずに対立した。名称なんてどうでもいいじゃないかという声も聞こえてきそうだが、多くの人が利用する新幹線の名称は走る広告塔でもある。テレビや新聞、そして地図や観光案内などでも頻繁に呼称は用いられ、そのPR効果は計り知れない。
それだけに、長野県にとっても北陸3県にとっても、名称問題は簡単に譲れる話ではなかった。また、名称を譲ることによって住民への面目も立たなくなる。自治体の沽券にも関わる問題ゆえに、知事や市長、地元選出の国会議員などにとってどうでもいい問題で片付けられる話ではなかったのである。
そうした政治家の沽券だけだったら、まだ実害は少ない。実際には企業誘致や移住促進といった地域経済にも影響を及ぼす。そうした背景から自治体間で一悶着が起こり、最終的には「長野“行”新幹線」という玉虫色の名称で決着した。