1937年の盧溝橋事件に端を発し、南京事件、38年の重慶爆撃などを経て、その後の太平洋戦争につながる日中戦争。だが、真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入して以降、中国との戦争がどう展開していったのか、それほど詳しくは知られていない。日中戦争の後半を詳述した『後期日中戦争』の続編『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』(広中一成著、角川新書)が刊行された。日本軍と国共両軍、三つ巴の戦場では何が起きていたのか——
(*)本稿は『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』(広中一成著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
ひとたび氾濫すれば、甚大な被害をもたらす黄河
河南省は、黄河中下流域に位置し、北は山西と河北、東は山東と安徽、南は湖北、西は陝西の6つの省と隣接する。省の総面積は終戦頃で約16万5000平方キロメートルに及ぶ。
この地は古くから中原といわれ、数多くの王朝が発生し繁栄を築いた。省北部の安陽は、今からおよそ3500年前、殷王朝後期に都が置かれた所だ。殷は占卜(せんぼく)に漢字の原点といわれる甲骨文字を用いたことで知られる。
西部の洛陽は、周代の都市国家洛邑を原形とし、後漢以降いくつもの王朝がここに首都を定めた。省中部にある開封は、隋代に大運河が通ると、この地域の商業の中心地として発展し、960年に成立した宋(北宋)の首都となる。
このように河南省が早くから発展したのも、黄河の影響が大きい。上流から流れてくる栄養を含んだ土砂が河南省の河岸に流れ着き、肥沃な土地を形成した。そこに人が住みつき、それが集団となり、やがて文明を花開かせていく。
人々に恵みをもたらした黄河は、全長5464キロメートルもの長大さがゆえに、ひとたび氾濫すれば、川筋すら変えるほどの濁水が溢れ出し、甚大な被害をもたらす。
黄河下流のなかでも、特に河南省の鄭州から中牟の流域は砂泥が溜まりやすく、古くから洪水が何度も起こった。『中牟県誌』によると、その回数は元代(1271─1368年)から1938年までのおよそ650年間で、大きなものだけでも30回余りを数える。
日中戦争中に起きた38年の洪水は、6月9日頃から鄭州の花園口の堤防が決壊し、集落や農地を次々と水没させていった。南東方面へと流出した河水は幅30〜80キロメートル、長さ400キロメートル以上に達し、河南省だけでなく、東の安徽省と江蘇省にまで広がる。新たにできたこの河流は新黄河と呼ばれた。そして、この洪水によって5万4000平方キロメートル以上(北海道の面積の7割近くに相当)の土地が水に浸かり、約89万人が死亡、1250万人以上が住む家を失ったのだ。
その浸水の程度はどのくらいだったか。河南省開封南方の尉氏(いし)付近にいた第16師団輜重兵第16聯隊の小原孝太郎一等兵は、15日の日記にこう書き残す。