(歴史学者・倉本 一宏)
左大臣に上りながら左降された魚名の子孫
次は藤原北家魚名(うおな)流の豪毅な官人について述べよう。『日本文徳天皇実録』巻四の仁寿二年(八五二)二月壬戌条(二十五日)は、次のような藤原高房(たかふさ)の卒伝を載せている。
越前守正五位下藤原朝臣高房が卒去した。高房は、参議従四位上藤嗣(ふじつぐ)の第三子である。身長は六尺。腕力は人より優れ、甚だ意気が有り、細かい忌みに拘わらなかった。弘仁十三年に右京少進となり、累進して天長三年に式部大丞に遷任された。天長四年春に従五位下を授けられ、美濃介に拝された。威光と恩恵を共に施し、何事も他人任せにせず、姧状を摘発して、国内に盗賊はいなくなった。安八郡に掘り割りが有ったが、堤防が決壊して水を蓄えることができなかった。高房は堤防を修理しようとしたが、土地の人が伝えて云ったことには、「掘り割りには神がいて、水をさえぎることを望んでいない。これに逆らう者は死ぬ。故に前国司はあえて修理しようとしなかった」と。高房が云ったことには、「いやしくも民を利するのであれば、死んでも恨まない」と。遂に民を督励して堤防を築き、潅漑が流れ通った。民は今に至るまでこれを誉め称した。また、席田郡に妖巫がいて、その霊言の害毒は暗きを行ない、心を惑わしていた。一味は蔓延し、民は毒害をこうむった。古来の国司は皆、恐怖して、敢あえてその地に入らなかった。高房は単騎で入部し、その党類を追捕して、一時に厳罰を加えた。これによって再び心を惑わす毒はなくなった。後に備後・肥後・越前守を歴任し、それぞれに業績を挙げた。背中にできた悪性の腫瘍によって卒去した。時に行年は五十八歳。
魚名流は、左大臣に上りながら延暦元年(七八二) に左降された魚名の子孫である。魚名の子のうち、鷲取(わしとり)の子孫は山蔭(やまかげ)男中正(なかまさ)の女に時姫(ときひめ)が出て兼家(かねいえ)の室となり、道隆(みちたか)や道長(みちなが)を産んだことから、それなりに高位高官に上った。山蔭は吉田(よしだ)神社を創始したほか、四条流庖丁式(しじょうりゅうほうちょうしき)の創始者に擬せられている。
また、藤成(ふじなり)の子孫からは秀郷(ひでさと)が出て平将門(たいらのまさかど)の乱を平定し、その子孫は多くの武家を輩出した。
延暦元年に氷上川継(ひかみのかわつぐ)事件に連坐して土佐介に左遷された末茂(すえしげ)の子孫は、平安時代に入っても、地方官を歴任する中級貴族となったが、末裔である顕季(あきすえ)やその男たちが院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿に任じられるようになった。受領として蓄えた富を院に寄進したほか、顕季は院の乳母子(めのとご)として近臣となった。
さらに長実の女得子(とくし)は鳥羽(とば)院の寵愛を受けて皇后となり、近衛(このえ)天皇や暲子(しょうし/後の八条[はちじょう]院)を産み、得子も美福門(びふくもん)院となった。家保(いえやす)や家成(いえなり)も院近臣となり、「天下の事は挙げて一向、家成に帰す」(『長秋記[ちょうしゅうき]』)と称された権力を手に入れた。彼らは院の御願寺(ごがんじ)を次々と造営したかたわら、院領・御願寺領荘園(しょうえん)の形成に力を尽くし、権力を強めていったのである( 美川圭『院政』、倉本一宏『藤原氏』)。
さて高房であるが、延暦十四年(七九五)生まれ。この連載ではじめて、平安京の時代に生まれた人物ということになる。参議藤嗣の三男で、母は大納言紀古佐美の女である。身長が六尺というから、約一八〇センチ、当時としてはかなり大柄な方だったであろう。しかも腕力があり、甚だ意気が有って細かいことに頓着しないたちだったようで、心身ともに豪傑肌の人であった。さすがは秀郷(俵藤太[たわらのとうた])の親戚である。
しかも藤原内麻呂(うちまろ)の長男である真夏(まなつ)の女と結婚しているのであるから、この高房も藤原氏の中で将来を嘱望された人物であったに違いない。ただ、真夏は内麻呂によって平城(へいぜい)天皇に接近させられて、弘仁元年(八一〇) の薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)で解官されたりしていたので、高房もその後見を受けることはなかったであろう。薬子の変の年、高房は十六歳、結婚が変の前であったか後であったかは定かではない。
高房は弘仁十三年(八二二)に二十八歳で右京少進、天長三年(八二六)に三十二歳で式部大丞に任じられ、天長四年(八二七) に従五位下に叙爵されて美濃介に任じられているから、薬子の変の影響はさほど受けていないものと思われる。
面白いのは、美濃介在任中に、安八(あんぱち)郡( 美濃国南西部) の掘割の堤防が決壊し、修理しようとした際、土地の人は神の祟りを恐れて修理しようとしなかったが、高房は、「民を利するのであれば、死んでも恨まない」と言って堤防を築いたという逸話と、席田(むしろた)郡( 美濃国西部) に怪しげな巫女が民心を惑わしていた際、高房は単騎で入部し、その党類を追捕して厳罰を加えたという逸話である。
土着の神と都から来た国司との軋轢は、『常陸国風土記』の夜刀(やと)神と五世紀の箭括麻多智(やはずのまたち)および七世紀の壬生麿(みぶのまろ)との関係に見られるように、古来から存在したものであった(さらに昔だと八岐大蛇[やまたのおろち]と素戔嗚尊[すさのおのみこと]の関係か)。一方、勧農や用水の整備というのは、律令にも規定された国司の業務である。高房は農業の妨げとなる地方の土着神や土着信仰に対し、敢然と律令官僚としての務めを果たしたことになる。
その後も備後・肥後・越前において業績を挙げたというのであるから、理想的な古代の地方官と称することができよう。
その高房は、背中にできた悪性の腫瘍によって、五十八歳で卒去した。当時の史料に見える「腫物(しゅもつ)」であろうが、この「腫物」で命を落とす人も多かったことから、たんなる皮膚疾患ではなく、内臓疾患が腹部や背中に出て来たものと推定される。
なお、摂津国島下郡の総持寺(現大阪府茨木市総持寺)は、高房の遺志を継いだ山蔭が、入唐使大神御井(おおみわのみい)に託して白檀香木を求め、千手観音を造像安置して創建したものという(『朝野群載[ちょうやぐんさい]』所載「捴持寺鐘銘」)。