赤塚城 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

北条氏の家臣となった武蔵千葉氏の城

 前回の志村城につづいて、武蔵千葉氏関係の城を紹介しよう。板橋区の赤塚城である。赤塚城へは、都営三田線の終点である西高島平駅が近い。早トチリな人は赤塚城というからには下赤塚駅が最寄りなのだろう、と東武東上線に乗ってしまいそうだが、東上線の下赤塚駅からだと少々遠い。

 西高島平の駅を降りたら、首都高5号線の高架に沿って南に歩いて、都立赤塚溜池公園を目ざそう。公園の中は、池に釣り糸を垂らす人や散歩の親子連れで平和そのものの光景だ。その池の向こうに見える小高い丘の上が城跡である(写真1)。

写真1

 林の中の小径を軽く登ると広々とした場所に出る。ここが赤塚城の主郭(本丸)で、一隅に「板橋区史跡 赤塚城本丸跡」の石碑が立っている(写真2)。赤塚城を築いたのは、先月の志村城や先々月の中曽根城で紹介した武蔵千葉氏だ。下総での内訌によって武蔵に亡命した千葉氏の一族は、赤塚城を中心に江戸の北郊に住み着いて、やがて北条氏の家臣となった。

写真2

 さて、主郭といってもパッと見は近所の人が散歩にくるような原っぱだ。少し歩き回ってみよう。原っぱの北側の縁がこんもりした木立になっているが、ところどころ刈り払われている。よく見ると、空堀が残っている(写真3)。

写真3

 この場所は台地の縁にあたっていて、西高島平駅のすぐ北には新河岸川や荒川が流れている。そこから先ほどの池までは、戦国時代には湿地や水田だったから、木立がなければ北に向かってかなりの眺望が得られたはずだ。

写真4

 原っぱの南側にある高まりは、土塁跡のようである(写真4)。この南側に続く梅林のあたりが二ノ曲輪だ(写真5)。梅林の南側から西側にかけてが三ノ曲輪だっだようだが、現在は住宅地や畑となっている。

写真5

 ということは、梅林と住宅地との間を東西に走る道が堀跡だったわけである。この道を西に向かってたどってみよう。150メートルほど進んだところで台地の西側の縁に行き着くが、右手をのぞき込むとやはり空堀がある(写真6)。私有地なので立ち入れないが、柵越しに眺めても空堀が視認できる。

写真6

 空堀を確認したら、60メートルほど戻って四つ角を曲がり、南に向かう。ほどなく台地の南側の縁に出る。ここが城域の南端になるわけで、谷をはさんでだ南に赤塚公園の木立が見える(写真7)。赤塚公園のさらに南にある東京大仏のあたりまでを城域とする人もいるが、あまりに広すぎる。武蔵千葉氏の勢力は、そこまで強大ではない。

写真7

 強大ではないが、いや、強大ではないゆえに懸命に生き残りを模索しなければならなかったのが、武蔵千葉氏であった。城を辞したら、三田線の電車に乗る前に西高島平駅の広い道を、西に向かって歩いてみよう。

 ほどなく、道は白子川という小さな川を渡る。いま、この川は東京都(板橋区)と埼玉県(和光市)の境になっているが、武蔵千葉氏が北条氏に帰属した頃は、北条氏と扇谷上杉氏との軍事境界線となっていた(写真8)。

写真8

 1525年(大永5)には、このあたりで北条氏綱と扇谷朝興(ともおき)が激戦を交えている。生き残るために北条氏に帰属した武蔵千葉氏は、北条軍の最前線を担わなければならなかったのである。

 そんな彼らの身の上を思うと、木立の中にかろうじて残っている空堀が、何だかいとおしく思えてくるのだ。

 

[参考文献]東京都教育委員会編『東京都の中世城館(主要城館編)』(2006)