小田原駅前に立つ北条早雲像 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

◉戦国大河ドラマはどこへ行く?(前編)

「個」として戦争に臨む主人公をどうする?

 あらためて『どうする家康』をふり返ったとき、考証や画面構成の問題以上に、筆者には気になる問題がある。人物、わけても主人公の人物造形の問題である。というより、戦国大河における主人公の人物造形はとても難しい局面にきている、と感じる。

 かつて戦国大河の主人公たちは、単純・純粋な野心に突き動かされて敵と戦い、領土を広げ、天下を目ざしていた。こうしたタイプの戦国大河では、主人公がわかりやすい上昇志向をもって乱世を颯爽と駆け抜けてゆくから、経済成長期の日本人には違和感なく受けいれられた。

甲府駅前の武田信玄像

 風向きが変わったのは、1990年代に入る頃からであろう。『利家とまつ』『秀吉』『おんな太閤記』『功名が辻』などでは、夫婦の絆や家族関係にフォーカスされていた。バブルの崩壊を背景として、野心家の主人公が視聴者の共感を呼ばなくなったためであろう。

 とはいえ、こうした傾向も長くは続かなかった。長引く経済の低迷と格差の拡大、情報通信環境の急速な普及によって、人々はより強く「個」として社会と関わらざるを得なくなったからだ。『江』の主人公は、家族の絆を意識しながらも、「個」として行動する女性として描かれた。橋田壽賀子作品がドラマの王道から滑り落ちるのと軌を一にするように、ホームドラマ風の戦国大河は後退していったのだ。

北ノ庄城跡に立つ三姉妹像。いちばん手前が江

 一方で、戦国大河の主人公はほとんどの場合、武将である。その武将の本業は戦争であるから、戦国大河はどうしたって戦争を描くことになる。では、平和が続く現代の日本において、「個」として戦争に臨む主人公をどう造形すれば、視聴者の共感を得られるか。

 ここで登場したのが「いくさのない世を実現する」という理念であった。近年の戦国大河の主人公たちは、ほぼ例外なく「いくさのない世」という理想を語ってきた。

 とはいえ、主人公がバリバリ戦争するのは避けられないから、「戦争をなくすための戦争」などというロジックは、やはりどこか胡散臭い。大河ドラマの視聴率が長期低落傾向をたどったのも、「いくさのない世」の理想を掲げながら戦争を仕掛ける主人公に、視聴者が共感を覚えなくなっていたからではないか。

 この傾向に対する決定的なインパクトとなったのが、現実の世界情勢である。ロシアのウクライナ侵攻や、中国の膨張主義を目の当たりにしては、「平和を実現するための戦争」などというロジックは、共感を得られるはずもない。

越前一乗谷。繁栄を誇った戦国都市も織田信長の覇業により一夜にして灰燼に帰した

 ただ、『どうする』の視聴率が10%を大きく割り込まなかったことから、大河に一定数の岩盤支持層がいるのも間違いない。そうした岩盤支持層の多くがコアな歴史ファンであれば、戦国武将の仕事は戦争という事実を、善悪の価値判断を抜きにして理解しているだろう。今夏の『どうする』で、瀬名の語る理想が総スカンを食ったのも、大河視聴者層の動向を見誤った結果だとわかる。

桑名城の本多忠勝像。戦国武将の本業は戦争である

 筆者が、戦国大河における主人公の人物造形は難しい所にきている、と書いた理由はここだ。「いくさのない世」の理想を掲げながら戦争する戦国武将では、もはや視聴者の共感は得られない。あるいは、お為ごかし抜き容赦なく戦争や調略を仕掛ける武将を描けば、コアな歴史ファンは喜ぶだろう。ただし、一般視聴者の共感は得られない。

 この先、どのような戦国武将をどう人物造形すれば、多くの視聴者が魅力を感じられるのか。正直、筆者にも見当がつかない。戦国大河は、かなり重大な曲がり角に差しかかっているのかもしれない。

 

⇒11月20日掲載「“どうする感”が薄れてしまった大河『どうする家康』の最後はどうなる?」、11月27日掲載「『どうする家康』の視聴率をどう見る?大河ドラマというコンテンツの変化」をあわせてお読み下さい。