江戸城富士見櫓 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「誰も見たことのない大河」

 本稿では、年間を通して『どうする家康』を見た上での、筆者なりの総括的な感想を述べてみたい。

 大河ドラマは、ドラマである以上はエンタテインメントであるから、脚色やフィクションを交えなければ、ドラマとして成立しない。とはいえ、あまりに荒唐無稽だと(たとえば関ヶ原で西軍が勝ってしまうとか)、視聴者がついてこれなくなる。というより、「歴史に題材をとったドラマ」として成り立たなくなってしまう。

 ゆえに、大筋では史実に沿いつつ、個々の場面や展開では脚色なりフィクションを加えることになる。このあたりが、制作側や脚本家のさじ加減で、視聴者からすればツッコミ所ともなる。そうしたさじ加減が絶妙で、視聴者にフィクションの作為を感じさせない、ないしはフィクションでも許せる、と思わせられるのが評判のよい大河なのだろう。

二俣川古戦場跡。『鎌倉殿の13人』で描かれた二俣川合戦もフィクションが満載だった

 では、今年の『どうする家康』を、筆者はどう見たか。

 まず目を引いたのは、冒頭の字幕が明朝体の横書きになったことだ。これは案外、大事なことだと思う。これまでに2度、考証という立場から大河にかかわった経験からすると、制作側は「誰も見たことのない大河を創りたい」という意欲をもっているものだ。いかにも今風な明朝体横書きの字幕は、『どうする』の方向性を示すメッセージに思えたのだ。

 各場面にCGが多用されていることも話題を呼んだが、2020年代の制作スタッフが「誰も見たことのない大河」を指向するなら、CGの多用は当然の選択だろう。「ゲーム画面みたい」と感じた視聴者も多いと思うが、もしNHKが今後、大河とメタバースとのコラボを試みるなら、CGを多用した画面はむしろ好都合ではないか。遠からず、視聴者がメタバース空間で足軽や侍女となって、大河のシーンに参加できるかもしれない。

メタバース空間で大河世界に遊べる日はくるか(写真は一乗谷にて)

 ゲーム画面っぽさ以上に筆者が気になったのは、画面の造りや人物の行動など、全体に韓国ドラマや中国ドラマの影響を感じることだ。正直、違和感を拭えないのだが、これも考えてみれば当然なのかもしれない。

 以前にNHKのスタッフから、次のような話を伺ったことがある。『真田丸』の制作にあたって、自分たちがどのようなドラマを作るのかを新入社員に理解してもらうために、2000年の『葵・徳川三代』を見せたところ、彼らはセリフが聞き取れなかったそうだ。

 そういえば筆者も、若い女性の歴史ファンから「黒沢映画を見たがセリフが聞き取れない、どうも録音のせいではないらしい」と聞いたことがある。どうやら、20世紀に作られた時代劇のセリフ回しは、現代の若者には日本語には聞こえないらしい。彼らが、日本の時代劇よりも韓国ドラマや中国ドラマを多く見て育ってきていることを考えれば、画面造りや演出がそちらに寄るのも合点がゆく。

赤穂城に立つ大石内蔵助像。Z世代には時代劇を見ずに育った者も多い

 ちなみに、筆者が『どうする』でいちばん気になったのは、建物の間取りと人物の着座位置との関係がメチャクチャなことだ。家臣が主君より、侍女が奥方より上座に座るシーンが続出して、とても日本の武家社会とは思えない(家内もかなり気にしていた)。

 しかし、これも考えてみれば致し方ないのかもしれない。Z世代の若者は、普段から上座・下座を意識しない人が多いからだ。上座・下座の描写は朝ドラでもしばらく前から崩壊していたから、大河に波及するのは時間の問題だったのだろう。現代の制作陣は、上座・下座の原則より、登場人物の感情や関係性、ライティングの効果を優先しているようである。

一乗谷の朝倉館跡。建物の間取りと人の身分や行動様式は不可分の関係にある

 こう考えてくるなら、筆者のような昭和世代が「大河らしい」と感じる戦国大河は、今後もう現れない、と思った方がよいのかもしれない。