(歴史学者・倉本 一宏)
「道鏡事件」で知られる清麻呂の六男
和気氏の官人を扱うのは二人目である。前に触れた真綱の弟の仲世(なかよ)である。『日本文徳天皇実録続』巻四の仁寿二年(八五二)二月丙辰条(十九日)は、次のような和気仲世の卒伝を載せている。
散位従四位上和気朝臣仲世が卒去した。仲世は民部卿正三位清麻呂(きよまろ)の第六子である。生まれつき孝行で、十九歳で文章生となった。大同元年( 八〇六)に大学大允(だいがくのだいじょう)となり、公に仕えることは忠謹で、夜、就寝する毎に、首を内裏に向けて寝た。弘仁六年( 八一五)に式部大丞(しきぶのだいじょう)に遷任した。弘仁十年( 八一九)に従五位下を授けられた。天長元年( 八二四)に北陸道巡察使(ほくりくどうじゅんさつし)となった。天長四年( 八二七) に近江介(おうみのすけ)となったが、得た俸禄は貧民に施し下給した。累進して承和四年( 八三七)に弾正大弼(だんじょうだいひつ)となった。初め弾正台には南門が無かったので、仲世は奏上して中院の西門を移築して弾正台の門とした。また、個人的に位禄で近江国高島郡の田五町を買い、太政官厨家(だいじょうかんくりや)の費用に充てた。承和七年( 八四〇)に勘解由長官(やかげゆのかみ)に遷任した。承和十一年(八四四)に播磨守(はりまのかみ)として任地に下向した。播磨国内は清静に教化し、民は敢えて騒擾することはなかった。数年にして病により卒去した。時に行年六十九歳。国人はこれを惜しんだ。
和気氏については、前編の真綱のところで説明した( 最澄、空海を保護、異例の出世を遂げた和気真綱の悲しい最期) 。仲世は道鏡事件で有名な清麻呂の六男、男子としては末子である。没年から逆算すると、延暦三年( 七八四)生まれということになる。すでに清麻呂は十三年前に復帰し、この年は従四位下摂津大夫の要職にあった。
仲世は大学に学び、十九歳で文章生となった。その後の官歴は卒伝に記されているとおりであるが、極位極官は従四位上播磨守である。特筆すべきは、各官の端々に、在任中のエピソードが記されている点である。
最初に二十三歳で任官された大学大允( 大学寮の第三等官)では、公に仕えることは忠謹で、夜、就寝する毎に、首を内裏に向けて寝たというもの。この在任期間中の天皇は平城天皇と嵯峨天皇であり、両者は意思の疎隔を来たし、弘仁元年( 八一〇)に「薬子の変( 平城太上天皇の変)」が起こるのであるが、そういった政治情勢とは関係なく、仲世は忠謹に励んだのであろう。弘仁元年には「二所朝廷」と言われるほどの王権の分裂が現われたのであるが、仲世はどちらの内裏( 平安宮と平城宮)に首を向けて寝たのであろうか。
四十四歳で近江介に任じられたが、仲世は得た俸禄は貧民に施し下給したという。まことに立派な国司ということになる。
五十四歳で弾正大弼に任じられた際には、弾正台に南門が無かったので、仲世は奏上して中院の西門を移築して弾正台の門とした。また個人的に位禄で近江国高島郡の田五町を買い、太政官厨家の費用に充てたという。まさに滅私奉公の鏡のような人物である。
六十一歳で播磨守に任じられて任地に下向した際は、播磨国内は清静に教化し、民は敢えて騒擾することはなかったという。絵に描いたような良吏の典型である。
しかし、仲世の奉公もここまでであった。数年にして病により卒去してしまった。時に六十九歳。国人はこれを惜しんだという。
以上の公式な業績のほかに、仲世は兄の広世・真綱たちとともに、日本宗教界に大きな足跡を残している。延暦年中(七八二~八〇六)に高雄に高雄山寺(後の神護寺)を建立し、大同元年に帰朝した空海を高雄山寺に住させて保護した。弘仁三年( 八一二)には神護寺に金剛灌頂会を開いている。高雄山寺は和気氏の私寺であると同時に、入唐請来の新法門を宣布する機関と考えられていたのである(『国史大辞典』による。林屋辰三郎氏執筆)。
その後、天長元年( 八二四)、神願寺について、寺域が汚れていることを理由に、高雄山寺の寺域に移して、新たに神護国祚真言寺と称することを、兄真綱と共に言上して許されている。
このように平安初期仏教の庇護者となっているのも、父の清麻呂以来、培われてきた人格の賜物だったのである。仲世の卒伝が称讃に満ちているのも、故のないことではなかったのである。
なお、仲世の子としては三男の貞臣のみ知られるが(貞臣という名前の付け方も、いかにも仲世らしい)、貞臣は幼い頃に母を喪ったために伯父の真綱の養子となり、これも大学に学んで従五位下大内記に至ったが、疱瘡を患って仁寿三年(八五三)に三十七歳で卒去してしまった。