先進国だったアルゼンチン、その転落の歴史

 第二次世界大戦前まで、アルゼンチンは先進国に含まれていた。首都ブエノスアイレスは南米のパリとも称され、世界有数のコスモポリタンだった。

 戦後のアルゼンチンは、フアン・ペロン元大統領(一期目の任期は1946-1955年)が左派の立場から分配重視の経済運営を推進したが、それが行き詰まり、軍部によるクーデタを招く事態となった。

 その後のアルゼンチンは、ペロニスタ(ペロン主義者)と軍部による対立が続いた。経済運営に関しては、大まかに言えば、民政が分配を担い、軍政が成長を担う構図が続いたのだ。この構図の下では、現実主義に立脚した中道政党による政権運営が行われず、それがアルゼンチン経済の長期にわたる停滞を招く結果をもたらした。

 それでも、1989年に就任したペロニスタのカルロス・メネム元大統領(任期1989-1999年)は、それまでの分配重視の政策とは異なり、成長重視の政策に運営の舵を大きく切ることに成功した。カレンシーボード制という強固な固定相場制度を米ドルとの間に導入し、ハイパーインフレの収束と安定した経済成長の実現に成功したのである。

 アルゼンチン経済に安定をもたらしたカレンシーボード制だったが、結局は2002年に放棄を余儀なくされた。メネム政権がカレンシーボード制を維持するためにはご法度だった財政の拡張に踏み込んでおり、固定相場が維持できなくなったためだ。結局、アルゼンチンは債務不履行となり、同国の経済と社会は大混乱に陥ることになった。

 その後もペロニスタ政権の下で分配重視の政策運営が続いたため、アルゼンチン経済は停滞した。2015年には経済の停滞の打破を主張した中道右派で親米路線のマウリシオ・マクリ元大統領(任期2015-2019年)が誕生し、経済改革を進めようとしたが、ペロニスタ政権の下で詰み上がった負の遺産を前に、志半ばでの退場を余儀なくされた。