関ヶ原合戦地、笹尾山 写真/フォトライブラリー

  新刊『戦国大変が反響を呼ぶ乃至政彦氏。本書の主眼を「戦国の風景と感覚を見えやすくする」と語るとおり、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。

 今回はそんな「戦国大変」に綴られた戦や出来事のなかから生まれた疑問を、改めて筆者・乃至政彦氏に聞いた。

関ヶ原決戦で石田三成はどこにいた?

 慶長5年(1600)の「関ヶ原合戦」についてインターネットで検索してみると、石田三成を主将とする西軍が横に広がっていて、徳川家康率いる東軍が前に進むかのように並んでいる布陣図が、でてくると思います。じつは、この布陣図は、明治時代に作られて定着したものなのです。

 関ヶ原の戦いにおける石田三成の布陣地は、「笹尾山」だというのが定着しています。ですが、これは明治になって初めていわれたことのようです。

 江戸時代の文献で、「石田三成が笹尾山に布陣した」と書かれた史料は、私の知る限り、ありません。現在、笹尾山は立派に整備されていて、私も、これを見て、「ああ、関ヶ原が一望できて美しいところだな」と思いましたが、どうも三成は、ここにはいなかったらしいのです。

 では、本当はどこにいたのか? 江戸時代の文献を調べてみると、三成は「小関」にいたと書かれています。この「小関」がどこかを調べてみると、現在の地名に小関という「町」があり、三成はこの小関の付近に布陣したのではないか、ということが考えられます。

 その小関のちょうど北側に、笹尾山があるわけです。たしかに江戸時代の文献を見ると、「小関の北に布陣した」と書いてあるものもあります。ただ、その史料をよく見ると、そこが笹尾山だとすると、いろいろ、おかしいところがあるわけです。

 江戸時代の文献には、小関について、「小関山」と書いてあるものもあります。「山」と書かれているのです。現地に行くとわかるのですが、笹尾山は山ではあるけれど、「小関の町」は、別に山地にあるわけではないのです。

 研究者の高橋陽介さんが、江戸時代初期の頃の史料を調べたところ、石田三成の布陣地は全然違っていて、三成は「自害峰(じがいがみね)」に比定できる場所にいた、と書かれているというのです。この自害峰は、笹尾山より2kmほど南の場所にあって、小早川秀秋が布陣したという松尾山が、もう、目の前というくらいに近いところにあります。

 では、小関とは、そもそも、どこなのでしょうか? ある古代の史料に、「関所があって、南北に小さな関がある」ということが、書いてあります。

 関ヶ原は、関所がある場所だから「関ヶ原」となっているわけです。その関ヶ原の大きな関は、不破郡の「不破の関所」があるところです。

 ただ、関ヶ原には、南北に小さな関所があって、そのうちのひとつは、たしかに笹尾山の南側、現在の小関があるところにありましたが、もうひとつ、現在の地名では残ってないところが、自害峰にあったのだろうと思われます。自害峰は、北と南に山が分かれた感じになっているのですが、その北側に、おそらく三成が布陣していて、そのあたりの山のことが、「小関山」と呼ばれていたのだと思います。