長篠城跡 写真/フォトライブラリー

(歴史ライター:西股 総生)

なぜ、呼び方が分かれるのか?

 1575年(天正3)の5月に、織田信長&徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った長篠合戦。大河ドラマ『どうする家康』がこの合戦に差しかかったタイミングで、各種ウェブサイトも関連記事でにぎわっていますが、記事によって「長篠合戦」「設楽原(したらがはら)合戦」と呼称が一定しません。

 歴史上の合戦や会戦は、起きた場所の地名を取って呼ぶのが一般的です。たとえば、「石橋山合戦」「関ヶ原合戦」「鳥羽・伏見の戦い」、世界史に目を広げてみても「赤壁の戦い」「ワーテルロー会戦」「クルスク戦車戦」といった具合です。

 1575年5月の織田・徳川連合軍vs.武田の戦いの場合も、「長篠」「設楽原」は共に戦いが起きた場所の地名です。では、どちらの名で呼ぶのが正しいのでしょう? というか、なぜ呼び方が分かれるのでしょうか?

 理由を探るために、まず、この戦いの経緯を整理してみましょう。

 この戦いは、武田勝頼が徳川領内に侵攻して、長篠城を包囲したことから起きました。この時点では、徳川軍より武田軍の方がはるかに強大です。そこで、長篠城を包囲して痛めつけることにより、家康が救援に出陣せざるをえないように仕向け、出てきた徳川軍主力を一気に叩きつぶす、というのが勝頼の作戦意図です。

 大ピンチに陥った家康は、信長に援軍を求めました。信長は、それまで畿内方面での戦いに忙殺されていましたが、ちょうど戦況が一段落して兵を休ませているタイミングで、家康からのSOSに接しました。武田軍に決戦を挑むチャンスだと即断した信長は、織田軍の主力を率いて駆けつけることにしたのです。

 ただ、ドラマでも描かれたように、長篠城は川の合流点に築かれていて、武田軍は城を見下ろす小高い丘の上に布陣しています。この状態で武田軍に攻めかかるのは不利ですし、武田軍と雌雄を決するような会戦に持ち込むためには、開けた土地が必要です。

 そこで信長は、長篠城の6キロほど手前の設楽原の西側に織田・徳川軍を布陣させました。こうした動きに勝頼が反応した結果、5月21日に設楽原で両軍主力が激突したのです。

 したがって、5月21日に起きた両軍主力の激突にフォーカスするならば、この戦いは「設楽原合戦」と呼ぶ方が適切、ということになりそうです。こちらの呼称を使う人は、実際の戦いが起きた場所、という理由で「設楽原合戦」の呼称を用いているのでしょう。

 しかし一方で、武田軍による長篠城包囲から両軍の主力決戦までを、「一連の作戦行動として起きた戦い」と捉えるならば、「長篠合戦」と呼んだ方が適切といえるでしょう。つまり、設楽原での会戦は「一連の作戦行動」のクライマックスに過ぎない、という考え方です(このような決戦を軍事用語では「決勝会戦」と呼びます)。

 ちなみに筆者は、後者の考え方に立って「長篠合戦」と呼ぶことにしています。なぜなら、この戦いの勝因・敗因は、設楽原の決戦場における両軍の戦術や兵器の優劣を論じても理解できない、と考えているからです。

 この戦いは、一にも二にも信長の作戦勝ちであり、そうした作戦次元での判断の素早さ・適確さこそが信長の強さだと、筆者は考えているからです。作戦次元で分析しなければ理解できない戦いなら、広域呼称である「長篠」の方が適切、というわけです。

 みなさんは、どちらの呼称が適切だと思いますか?

[参考図書] 長篠合戦についてもう少し詳しく知りたい方は、拙著『戦国武将の現場感覚』(KAWADE夢文庫720円)または『東国武将たちの戦国史』(河出文庫 900円)をご一読下さい。普通の歴史書では読めない、作戦次元からの分析が加えられています。