荒廃したスターリングラード市街とバルマレイの泉

(歴史ライター:西股 総生)

●歴史家が考える戦局のターニングポイント(前編)

成りゆきで激戦地化したスターリングラード 

 予想外の場所が、「成りゆき」によって激戦地と化した例として、もう一つ、スターリングラード攻防戦を挙げておきましょう。

 スターリングラードは、ボルガ川西岸にある工業都市で、現在はボルゴグラードと呼ばれています(現在、ボルゴグラードでは市名をスターリングラードに戻そうという動きがあるようです)。

 この都市は、ボルガ川沿岸地方においては交通の要衝といえます。ただ、1941年6月にヒトラーのドイツ軍がソ連侵攻を開始したとき、スターリングラードが戦局を左右するほどの激戦地になるとことを予想した人は、おそらくいなかったでしょう。ドイツ軍は、戦力を集中してモスクワを短期攻略する戦略だったからです。

 ところが、モスクワの短期攻略に失敗したヒトラーは、ウクライナ方面の資源地帯を占領するよう、戦略を変更します。この判断については現在でも評価が分かれていますが、ヒトラーは長期戦を見越して戦争経済を優先する判断を下したのです。

 ドイツ軍は、おおむねボルガ川までのエリアを占領する方針を立てました。この時点ではスターリングラードは、攻略すべきいくつかの都市の一つにすぎません。ところが、この街には広いボルガ川を渡るフェリーの渡船場があったのです。

 強力なドイツ軍の前に総崩れとなったソ連軍は、ボルガ川を渡って東に脱出しようと、スターリングラードに向けて後退します。このため、ドイツ軍の攻撃もスターリングラードに向かって収束し、街はドイツ軍に包囲される恰好になりました。

 状況を見たソ連軍首脳部は、焦りました。スターリングラードが敵の手に落ちれば、ボルガ川西岸に対する反攻の足がかりが失われてしまうからです。そこで、フェリーによるピストン輸送で、増援部隊を次々とスターリングラードに送り込むことにしました。

 このとき送り込まれたソ連兵の多くは、訓練も装備も行き届かない動員兵です。ソ連軍は、ついには駅前商店街くらいのエリアを残すのみとなりましたが、それでも人海戦術をつづけることで、どうにかドイツ軍の攻撃を凌いでいました。

 そして、戦況が膠着するなかで、ヒトラーとスターリンという双方の独裁者が、この都市の名前にこだわりはじめたのです。スターリングラード=「スターリンの街」という名前は、いつしか象徴的な意味合いを帯びるようになり、際限なく兵士の命を飲みむことになりました。

 やがて、ドイツ軍側は攻め疲れて消耗し、打つ手のない状態に達しました。専門用語でいう、「攻勢限界」です。一方のソ連側は、この間に兵士の動員と兵器の増産をつづけ、反転攻勢の準備を進めていました。

 1942年の11月、ついにソ連軍は全面的な反転攻勢に出て、スターリングラードを包囲していたドイツ軍は、逆にソ連軍に包囲される形となりました。ソ連軍の包囲を突破する試みも失敗に終わり、スターリングラード方面のドイツ軍は、ついに進退きわまってソ連軍に降伏したのです。その数は20万とも38万ともいわれます。ドイツ軍は、この痛手から立ち直ることができず、以後は防戦一方となりました。

 ちなみに、ドイツ側(西側)ではスターリングラード攻防戦を、独ソ戦におけるターニングポイントと見なす傾向が強いのですが、ソ連側では、こののちにおきたクルスクの会戦を重要視しているようです。何をもって、その戦争のターニングポイントと見なすか。負けた側と、勝った側とで、評価が異なるというのは興味深いことです。