商工業都市として発展してきた大阪は、東京や京都とは異なる独自の文化圏を形成し、古くから個性的で優れた美術作品を生み出してきた。そんな独自性の高い大阪の日本画を紹介する史上初の大規模展覧会「大阪の日本画」が、東京ステーションギャラリーにて開幕した。

文=川岸 徹 

北野恒富《宝恵籠》1931年頃、大阪府立中之島図書館

いま、大阪画壇がブーム!

 写生を重視し日本画に革新をもたらした円山応挙、呉春を祖とする円山・四条派、さらには伊藤若冲や曾我蕭白といった“奇想の画家”が活躍した京都画壇。かたや徳川幕府の御用絵師として華やかな襖や障壁画を制作する江戸狩野派が牽引した江戸画壇。これまで江戸中期以降の日本美術は、京都と江戸の2つの都市を軸に語られてきた。

 だが、その常識が変わりつつある。京都と江戸の“美術界2大メジャー都市”に加え、ひとつの街が注目を集め始めた。それが「大阪」だ。

 2022年、大阪の日本画を紹介する展覧会が相次いで開催された。「日本画トライアングル 画家たちの大阪・京都・東京」(泉屋博古館東京)、「サロン!雅と俗―京の大家と知られざる大坂画壇」(京都国立近代美術館)、「秘蔵の大阪画壇展」(大阪商業大学商業史博物館)。そして2023年1月には、大阪画壇をテーマにした過去最大規模の展覧会「大阪の日本画」が始まった。

 大阪中之島美術館で開催された大阪展は予想を上回る大ヒットを記録。その盛り上がりを引き継ぎ、4月15日からは舞台を東京ステーションギャラリーに移し、東京展が開催されている。

 こうした“大阪ブーム”ともいえる状況を、以前から大阪の日本画を愛好してきたファンは「何をいまさら」と感じているだろう。というのも大阪の日本画は実に個性的で、何ともおもしろい。市民文化に支えられ、独自の文化圏を形成した大阪ならではの自由闊達な表現にあふれている。京都や江戸の絵画にはない独特の親近感もあり、作品と向き合うと「なんか大阪っぽいなあ」と感じてしまう。

 それほど個性に満ちた大阪の日本画が、なぜ評価されてこなかったのか。

中村貞以《朝》1932年、京都国立近代美術館 展示期間:4/15~5/14

 その理由は、「岡倉天心に評価されなかった」ことが大きい。日本美術史の骨格は、美術史家・美術評論家として活躍した岡倉天心によって形成された。岡倉が評価すれば、それは日本美術界総意の評価ということになり、逆に岡倉が認めなければ画家は頭角を現すことができないという状況が続いた。

 そんな状況だから、岡倉に評価されない大阪の画家たちは公募展に作品を出してもなかなか賞を取れない。彼らは徐々に公募展を敬遠するようになり、結果として全国的な知名度を得ることはできなかった。

 かといって、大阪の画家たちは生活に困窮していたわけでもない。彼らは住友家をはじめとしたパトロンに支えられており、知名度を高めなくても、制作活動を続けられるという背景もあった。無理をしてまで名声を得る必要はなかったのである。