さらにツイッターでは、河野大臣を批判する「コオロギ太郎」がトレンド入りするまでになった。当人もそれに気付いたようで先月27日には《www 疲れる》と書き込んでいた。

 そうこうしているうちに、「コオロギ食」に注目が集まって、あちらこちらで取り上げられるようになったようだ。

不毛な議論

 確かに、疲れる、不毛な議論だ。少なくとも私がそう思うのは、私自身が虫を食べて育ったからだ。そして、そのことで侮蔑的な言葉も浴びせられもした。

 私の生まれ育った長野県では虫を食べる。以前にも綴ったことだが、あえて繰り返す。

(参考)虫料理で私を驚かせようとした中国人が逆にビックリした故郷・長野の食文化

 小学校の秋の遠足の帰り道。夕陽の差す稲刈りの済んだ田圃の間の道を行くと、ふぁーっと向こうに飛び散っていく小さい影がある。イナゴだった。それも群れでいる。私たちはその群れを田圃に入って追った。それだけ周囲も寛容な時代だった。そして、イナゴを捕まえては持参したビニル袋につめていった。

 帰宅後、パンパンに張ったビニル袋を母親に渡すと、大きな鍋に水を張り、そこにイナゴを放して素早く蓋をして、そのまま火にかけた。しばらく鍋の中からはイナゴが撥ねて鍋蓋や内側にポンポンあたる音がしたが、それもそのうちにしなくなった。

 やがて、佃煮のように甘辛くなったイナゴが食卓に並んだ。カリッとした歯ごたえに、甘く、それをおかずにご飯がすすんだ。ただ、時々それまでの食感と違って、ぐじゃりとした苦く凄まじく不味い感覚が口の中に広がることがあった。イナゴの群れに混ざっていたバッタをいっしょに捕捉して、調理したものだった。食べるならイナゴでないとダメだ、と子ども心に知った。