アートとエコツーリズムで島おこし?
馬祖の島々には最大時、8万人の中華民国軍の兵士が配備されていた。
「1960年代の馬祖を一言で言い表すなら、荒涼。緑がなく、寒々していたというのが私の幼少時の記憶です」
そう語るのは、2022年末の地方選挙で連江県の県長に当選した王忠銘氏(64)だ。戦火の真っ只中だった50年代に南竿島で生まれた王県長が、最前線の島の変遷を語ってくれた。
60~70年代は「単打双不打」(奇数日は対岸から砲撃、偶数日は中華民国側から砲撃)という睨み合いが続き、台湾側の経済成長が著しかった70~80年代は、巨大なスピーカーで20キロ近く離れた対岸へテレサ・テンの音楽などを流し、“西側”の自由をアピールしていた。当時は島民よりも軍人のほうが多かったという。
「兵隊たちは、この荒涼とした土地をなんとかしようと、台湾からせっせと苗を運んできて、植樹して緑化に尽くしました。その結果、花崗岩が剥き出しの土地に樹木が増えたのが、昔と今では大きく違うところです。道路、電力供給、ダムなどのインフラも不足していましたから、かつての島内経済はそういった国防建設がメインだった。
戦地行政が敷かれていた時代ですから、県長も国軍が派遣した武官が務めていて、民主的とは言えませんでした。90年代に入ってから民主的に首長を選ぶ制度に変わっていったんです」
対岸は同じ福建省とはいえ、馬祖列島は福州に近く、金門島は廈門に近い。金門と馬祖で、対岸との付き合い方に違いがあるのか尋ねると、
「まずは地勢的に違います。金門は平地面積も大きく、開発の速度が速かったし、対岸との交通が開けた時からすぐ観光客の誘致に成功して商業的に発展しました。一方で馬祖の島々は、少し車で走っても分かるように、断崖絶壁と丘陵地に無理やり道路を通してきたので、急な坂道ばかりです」
「しかも主要な5島を合わせても人口は約1万4000人、金門の10分の1です。高粱酒を地酒として生産したり、魚介類を加工したりしていますが、他にこれといった産業もありません。ではどうやって生き残るか。いま取り組んでいるのは、海の生態系や自然環境を守る島として台湾本島の観光客を呼び込むことですね。日本でいえば瀬戸内海のトリエンナーレのようなアートの祭典を始めましたし、沖縄県の与那国島とも“辺境の島”同士ということで交流を始めました。そういう島の魅力を打ち出すことで、若い世代に移住してもらえればと考えています」
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