なぜわれわれは、有名人がいると見たくなるのか。わたしも若いころ黒沢年男に憧れたことがあるから気持ちはわかる。だが憧れることと、絶対に見たいというのはちがう。それどころか、「この年になって」からは、むしろそういう入れ込んだファン気質がうっとうしくなってきた。

 以前はよくNHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組を見た。そのうち、鶴瓶やゲストを迎えて色めき立つ町の人びとの姿勢に嫌気がさして見るのをやめた。なかには中年のおばさんが、寝たきりの高齢の父親に向かって「お父さん、生きててよかったねえ」というのを見て愕然とした。鶴瓶は神様か天皇陛下か。そんなに有名人に会うことがうれしいのか、と思うが、うれしいのだろう。鶴瓶は素知らぬふりをしているが、自分の人気をわかっているのだ。そこが嫌らしい。

 おなじNHKの火野正平の『にっぽん縦断 こころ旅』も静かな番組だと好んで見ていたが、コロナ禍のなかで、これも嫌になってきた。一般人の感激度についていけなくなったのである。自転車旅一行が来ると、町中に知れ渡るらしい。それで待ち伏せしたり、遠くから車や自転車や走って駆けつけるものがいる。嬌声を上げるのはおばさんたちだが、驚いたことに、おっさんやじいさんもやってくる。

 それでなにがうれしいのか、決まってみんな、握手をしたがる。写真を撮りたがる。サインを欲しがる。火野正平も握手をしながら、気に入った女性には「妊娠するよ」と、毎回おもしろくもないギャグをかます。いわれた女の人は、笑いで返すがまんざらでもない様子で、火野は火野で、本心がすこしは入っていそうである。

「見られる側は価値が高い人間だ」という錯覚

 わたしはその根拠のない上下関係、主従関係のやり取りを見たくないのである。おばさんだけではない。女子中高生のなかには、憧れの芸能人に会うと、感激のあまり泣き出す子もいるのだ。

 大都市以外の地方では、芸能人に対する感激度が想像以上に高いのかもしれない。岐阜市の女性が「(信長まつりに応募)しました。こんなスターが来るなんて」というように、芸能人がわが町に来ることは事件なのかもしれない(芸能人に手もなく憧れるのは女性に多い、また地方の人に多い、などというと、女性蔑視や地方蔑視といわれかねないが、ただ事実としてそうではないかと思うだけである)。

 まだ一般人の感覚を失っていずに、見ていて嫌味がないのは、『ブラタモリ』のタモリと、『1億人の大質問!? 笑ってコラえて』の所ジョージくらいである。

 再びの問いだ。なぜわたしたちは、芸能人や有名人を見ると色めき立つのだろうか。かれらは本来、ただ芝居をしたり歌ったり踊ったりするだけの人である。われわれ一般人と決定的にちがうのは、かれらはテレビ画面やスクリーンの「中」で生きる華やかな特権的な人で、こちらはそれらの「外」で地味な日常を生きるものである。またこちらはあくまでも「見る人」なのに、かれらは「見られる人」である。

 それだけの関係が、見る側は価値が低く、見られる側は価値が高い人間だ、という錯覚を双方にもたらすのだ。わたしたちは、かれらを何千回、何万回と見る。わたしたちは見るだけだから、だれからも1回も見られない。それが刷り込まれて、かれらは憧れの対象になり、なかには、わたしも「見られる側」に行きたいと思う人間が出てくるのも当然であろう。