大沢たかお(カンヌ国際映画祭で、写真:ロイター/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

※本稿は『ただ生きる』(勢古浩爾著、夕日書房)より一部抜粋し、大幅に加筆したものです。

 いまどき、「男は」とか「女は」などといいだすと、なにかと問題の種になりかねない。「男性」「女性」といわなければならない。ましてや「男らしさ」だの「男の中の男」などといおうものなら、とても無傷ではすみそうにない。だれが決めたわけでもないのに、なんとなく禁句めいているのだ。いま「男」や「女」という言葉が使われるのは、犯罪者を呼ぶときぐらいだけである。

 しかし口にしないだけで、男や女の意味がなくなったわけでは、もちろんない。現に男女は存在しているし、わたしは常々頻繁に、「ばかじゃないのか、この男は」とか「なんなんだ、この女は」などと、内心で毒づいている。

 考えてみれば、「男らしさ(女らしさ)」という言葉もまったく聞かなくなった。かわりに大手を振って出てきたのは「人間らしさ」であり、それよりも広範に市民権を得ている言葉は「自分らしさ」である。それはそれでいい。

 けれどわたしはいまだに古い意識からぬけきれていない。だから例えば、最高の人間といいたいときは、それが男なら「男らしい男」といい、女なら「女らしい女」ということが最高のほめ言葉だと思っている。またそのほうがしっくりくるのである。

滝田栄の途方もない言葉

 滝田栄がこんなことをいっている。いままで普通の人間が言った言葉のなかでは一番の言葉である。「人間の理想像の最高峰であるお釈迦様に近づいて人生を終えたい」(毎日新聞、2021.10.15)

 うーむ。途方もない言葉だ。人はこういう願いをもつことができるのか。だがわたしはこの言葉を聞いて、滝田栄は「すごい人間だ」と思うよりも、どうしても「すごい男だ」と思ってしまうのである。