いまや音楽を含む、映画・テレビなどの娯楽産業は超巨大産業になり(ネット配信サービスも)、もうだれもどうすることもできない。映画は「映画スター」という人種を作り出した。テレビは「タレント」という人種を生み出した。芸能界と馴れ合いの関係にあるマスコミがかれらを「大女優」「大御所」「見事に汚れ役を演じきった」「最後の映画俳優」などと持ち上げる。灰皿を役者に投げつける舞台監督や「あの電柱が邪魔だ、取れ」などと無茶なことをいう監督を、「天皇」と称して評価してきた。
有名人を見てどうするか――見て終わり
人間は周囲にちやほやされると、一般人だったときの感覚を忘れて、ほとんどの人間はいい気になり、調子に乗ってしまう。会社や役所で、仕入れ業者や下請け業者におだてられると、それを自分の力と勘違いしてのぼせあがるやつがいるのと、かたちとしてはおなじだ。芸能人たちがその気になるのも無理はない。そして人は、華やかに彩られた世界に生きるかれらに、ありもしない「オーラ」を感じるのである。
わたしは映画が好きである。好きな映画俳優もいる。テレビドラマも、日本の『JIN―仁』『白い巨塔』『大地の子』『空飛ぶタイヤ』や、アメリカの『バンド・オブ・ブラザース』、韓国の『リメンバー』『ミセン』など好きなものは沢山ある。わたしはそれらの作品を尊重し、俳優を尊敬する。
けれどそれは、あの店のカツカレーがうまい、あの店の天丼やとんかつや寿司が好きというのとおなじような気がするのである。「しばらくあの店の『鮮烈 黒チキンランチ』を食べてないなあ、明日行くか」ということでいえば、料理のほうが上、ということもありそうである。
しかし「しばらくあの俳優を見てないなあ、見たいなあ」なんてことはない。まして歌も踊りも演技も大したことない、ただ「カッコいい」というだけの理由で人気のある芸能人など、見たいなんてことはありえないのである。
「公」の顔を離れて「私」の顔に戻るとき、かれらのすくなからぬ人がわれわれと同じ卑小な人間であることは事実だが、熱狂的なファンにとってはそんなことは知りたくもないのだろう。
依然として、圧倒的多数の人はやはり有名人を見たいのだろう。見て、どうするか。見て、終わりである。見るだけで満足、という不思議な欲求である。だれの迷惑にもならないから、そう目くじらを立てることもないか。
おりしも29日夜、韓国ソウルの繁華街で、ハロウィン人気で10万人が超満員電車並みに密集し、そこに芸能人が来たという噂も相まって154人(ほとんどが20代で、6割が女性だという)が圧死したという事件が報じられた。
「ぎふ信長まつり」には、抽選に当たらなかった人間も大挙してやってくると予想される。どんな熱狂に包まれるのか興味があるが、無事に終了することを願う。