(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
少し前、「がら空きなのになぜ隣に座るの? 10人に1人、トナラーたちの意外な心理」(AERA dot.、2022/10/11、https://dot.asahi.com/aera/2022100700048.html?page=1)という「AERA」のネット記事を読んだ。横浜から東京へ向かう電車のなかで、7席横並びの座席の両端に記者と一組のカップルが座り、中の4席は空いていた。そこへ中年男がやって来て記者の隣に座ったので、「ギョッとした」というのである。
こういうことはよくあることなのか。記者が知人に聞いてみると、新幹線の2人掛けの座席で、ほかの席はがら空きなのに隣に座られた、また空いているカフェで横の席に座られたなど、「似たような経験を持つ人が多くいた」というのである。
こういうことなら、わたしはかなり経験している。忘れようとして忘れられない。広い喫茶店で客はわたし一人。窓際の4人席に座った。そこへ一人の男が入ってきた。そしてあろうことか、隣の4人席の、しかもわたしと背中合わせの席に座ったのである。大げさにいえば、わたしは驚愕した。こういう表現はよくないのだろうが、そのときの感情は「ええ? なに考えてるんだこのばか野郎は!」である。
図書館の駐輪場に自転車を止めれば、戻ってきたとき、わたしの自転車の真横に“めおと自転車”のようにぴったりと止めている者がいる。もちろん、周りはガラガラなのだ。まったくもう。駅やショッピングモールの便所に行けば、これまた横一列全部空いているのに、わたしの真横に立ってツレションをする男がいる。いやいやいや。ほんとわからないのだ、こういう者たちの心理が。
「つねに詰める」のが社会秩序なのか
記者は「確かにどこに座ろうとその人の自由だ」という。しかしこういう場合は断固「自由」ではない、というべきである。もし相手が「おれの自由だろ」といっても、ならば「隣に座られることを拒否するのはわたしの自由だ」といえばいい。「どこに座ろうと自由だ」という似非権利がはびこるから、空いている電車内で女性の横にぴったりと座り、体を押し付けてくる痴漢おやじが出現するのだ。死んでしまえと思う。つねに言い訳を用意しているところがいかにも男のくずである。
記者はそういう人間を「トナラー」と呼ぶ。しゃらくさいが、あればあったで便利な言葉である。