立てこもる傷害事件の犯人を取り囲む警察官(本文で触れたケースと直接の関係はありません、写真:ロイター/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 ここ20年ほどだろうか、巷間、「生きづらい」という言葉を頻繁に聞くようになった。世相を見てもそうだ。非正規雇用の増大、セクハラ、パワハラ、収入格差、DV、幼児虐待、いじめ、などなど。その一方では、権利意識が肥大し、持ち家・結婚・子ども二人というステロタイプ化した「幸せ」幻想が強迫観念となり、表面からは消えたが、まだ残存している勝ち組・負け組意識に苦しめられる。

 それが「生きづらさ」の正体だ。実際、こんな嫌な世の中で、なんの悩みもなく楽しく暮らせている者がどれだけいるのか。極端にいえば、ン十億円を払って宇宙旅行に興じる人くらいではなかろうか。「生きづらさ」はそんな人以外の、個人一人ひとりの暮らしに具体的な形で現れる。それでもほとんどの人は、羨望・憧憬・嫉妬・やっかみ・恨み・劣等感や無力感に捕らわれながらも、そんな意識を脇に置いて、自分の暮らしのなかでつましく生きている。

 人間にとって一番よくないことは、先にふれたようなマイナスの感情に頭が支配されることである。それが凝り固まると、そんな「自分」が煮詰まって、もう自分の手にも負えなくなる。自分で自分の感情を抑えることができなくなれば、最悪である。ひとつの観念や感情に「自分」が凝り固まり、煮詰まった挙句、その観念や感情に翻弄されたような不祥事や犯罪が多い気がする。

動機を探ろうとしても無意味

 卑近な例でいえば、スーパーやコンビニでの暴言や電車内での暴行、あるいはあおり運転の嫌がらせなどがそうである。ほんとうに些細なことが我慢できないのだ。その他、最近の事件を簡単に挙げてみる。

 2021年8月、小田急線で36歳の男が刺傷事件を起こし10人が負傷。犯人は「幸せそうな女性を見ると殺してやりたい」といった。10月、この小田急事件を模倣した24歳の男が、京王線電車内でナイフを振り回して放火し17人が負傷。映画『ジョーカー』に憧れ、服装を決めて犯行。「死刑宣告を受けたくて犯行に及んだ」と供述。11月、今度はこの京王線事件を模倣した69歳の男が、九州新幹線で放火未遂。事前に「死にきれない」と知人に電話した。

 もうかれらはなにも考えていないのである。「自分」がある観念や感情に乗っ取られて、夢遊病者のようになって事件を起こしたとしか思えないのである。

 12月、大阪のクリニックで61歳の男が石油を撒いて放火した。25人が犠牲となり、犯人も動機不明のまま死亡。2022年1月、高2の男子が大学入学共通テストの日、東大に向かう道で3人を刺傷した。少年は「成績が振るわず医者になれないなら人を殺して切腹しようと思った」と語った。