(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 わたしは若い時から物欲(所有欲)がほとんどなかった。老年になったいまでも、ない。

 中学3年のとき、ジョニー・ソマーズの「内気なジョニー」のレコードが喉から手が出るほど欲しかったことはある。けれど、人が憧れるような豪邸、フェラーリなどの外車、ロレックスなどの高級時計、ルイヴィトンなどのブランド品は、一度も欲しいと思ったことがない。むしろそんなものは邪魔だ。そもそも大金持ちになりたいと思ったことがない。と、わたしみたいなものがいったところで、それがどうした? で終わりだろう。ただの負け惜しみではないか、と。

 ではおなじことを、このひとにいってもらうことにしよう。堀江貴文氏である。かれはこういっている。「若い頃から、僕にはほとんど所有欲がない。車に家、高級スーツに時計、貴金属、有名なアート、トロフィーワイフ・・・多くのいわゆる金持ちが求めている、“自分の成功を象徴する”ような実体物を、ひとつも持ちたくない」(堀江貴文「ニセモノの安心を得ている人たちへ」東洋経済オンライン、2021.3.12)

 どうですか。堀江氏は、そんなものは不要どころか、「持ちたくない」とはっきりいっている。ちょっと意外な感に打たれ、思わず「ほほう」と呟き、堀江氏にそこはかとない好感を抱くのではないだろうか。

所有欲が人を幸せにすることはない

 わたしはときどきかれの考えに共感することがある。新型コロナに過剰反応するな、というのもそうだ(ちなみに「トロフィーワイフ」とはなにかと思ったら、成り上がりの青年実業家などが金にものをいわせて、世間に自慢できるような女優やアイドルを妻にすること、のようである。てっきり最近できた言葉かと思ったら、すでに1950年代にあった言葉らしい)。

 まさか堀江氏を“負け惜しみ”で片づけるわけにはいくまい。現にかれはかつて、資産を湯水のごとく散財した経験をしているのだ。「僕もかつて、所有欲にとらわれていた時代を過ごした。家も車も、ブランド品もワインも腕時計も、買いまくった。でも、その欲はすぐに満たされた」。仕事用だがプライベートジェットも持っていた。金で買えないものはない、と豪語していた頃である。だが堀江氏はこのことを知ったのである。「でも所有欲が、人を幸せにすることはない。あるとしても一瞬だ」