さらに同月、埼玉県ふじみ野市で66歳の男が、母親が92歳で死んだ翌日、44歳の担当医を散弾銃で射殺した。「母が死んでしまい、この先いいことはないと思った。自殺しようと思った時に、先生やクリニックの人を殺そうと思った」と供述。
昨年の8月以来、こんな事件がほぼ毎月起きているのである。事件を起こした人間も、興奮から冷めてみれば、自殺しようと思ったとか、死刑になりたいとか、切腹しようと思ったとかいっている。が、まるで無意味である。死ぬなら自分ひとりで死ねよ、ということはいってはいけないことになっているようだが、かれらはもちろん死ぬ気がない。口先で取り繕っているだけである。
京王線の車内でジョーカーを気取ってめかしこみ、タバコを吸ったことがなくただカッコだけでふかして余裕をかましていた犯人は、今頃夢から覚めて、なにを考えているのか。かれは死刑になりたいといったが、死刑がどのように決行されるかも知らないだろう。それとも、そんな自分にもう興味がないのか。
かれらの犯行の動機を探ろうとしても無意味である。「心の闇」などないのだから。そんなもの、探ってもわからないし(かれら本人にもわからないだろう)、かれらにかける言葉もない。
「自分」が内に向きすぎてしまう
もうひとつ、煮詰まった「自分」が内に向かうと、こんな形で現れることになる。こちらのほうがむしろ切実である。かけられるものなら、言葉をかけてやりたいが、それもむつかしい。2022年1月22日の『毎日新聞』に載った「無能な自分、悲しく苦しい」という「21歳・女性」の「人生相談」の記事である。
短いので、全文を引用してみる。
「ある目標があり、高校時代や卒業後も勉強を頑張りましたが、達成できませんでした。自分は無能で、周りの人に申し訳ないという気持ちでいっぱいになり、涙があふれて何もできない日が続きました。あれから2年。自分を好きになりたいと新しいことにたくさん挑戦していますが、毎日、劣等感や絶望感が入り交じった悲しい気持ちになります。苦しいです」