(歴史家:乃至政彦)
※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。
柴田勝家の二つ名
織田信長の重臣・柴田勝家は、武勇に秀でた武将だったとされている。
それを象徴するのが、その二つ名である「瓶割り柴田」の威称である。
今回はその逸話と史実の合戦を紹介しよう。
柴田勝家、長光寺城合戦で瓶を割る
元亀元年(1570)6月4日、かつて織田信長に近江の拠点を奪われていた六角承禎が潜伏先の伊賀から失地奪還を狙って、牢人たちを糾合して軍勢を催した。信長は、金ヶ崎の敗退で落ち目にあると見られてたらしく、かなりの人数が集まったらしい。
ここから始まる合戦について、江戸時代の『常山紀談』に「柴田勝家、水瓶を破りて城を守りし事」と題する逸話が掲載されている。そこにある内容を中心に、ほかの軍記にあることなとわを交えてわかりやすく紹介しよう。
この頃、柴田勝家は近江の長光寺城を預かっていた。ここへ押し寄せた六角軍は大軍で、勝家は籠城することにした。ところが、後がない六角軍には勢いがあり、防壁をも物ともせずに城の中へ兵を進めてくる。残るは本丸ばかりであったが、これは容易に落とせずにいた。
思案に暮れる承禎の陣中に領民が招かれた。承禎が城を落とす方法がないか尋ねると、領民は「あの城は水の手が遠く、その路地を塞いでしまえば、城は簡単に落ちるはずです」と答申した。
承禎は即座に水の手を奪い取り、しばらく様子を見ることにした。
すると、城兵たちがとても困っているのが、よく見えた。それでも勝家の兵たちは弱気なところを押し隠している。これを察した承禎は、降伏の使者に平井甚介なる人物を派遣する。甚介は偵察の役を兼ねていた。
堂々と面談を申し入れ、これを許された甚介は、勝家の前で臆することなく「手を洗いたい」と申し出た。
水の不足を知ってのことであろう。すると勝家は小姓2人に命じて大きな瓶に入った水を持たせ、これを甚介に使わせた。小姓は残った水を庭に捨てた。
話が違うと甚介は驚いたことであろう。
その頃、城将たちを集めた勝家が、険しい顔で水の尽きたことを告げた。
「かくなる上は明日、討って出て、斬死にしてくれようぞ」
ここに一同、最後の酒宴を開き、みんなで残りの水を飲み干すと、勝家が長刀(なぎなた)の石突で水瓶を叩き割り、夜明けと共に決死の突進を仕掛けることにした。
6月16日、柴田の将士が揃って城を出るなり、六角軍の旗本に襲い掛かった。
六角承禎たちは敵の奇襲に驚き、まともに抵抗することもできず、打ち破られた。
勝利を得た柴田勝家は、六角軍の首800余を岐阜城にいる織田信長のもとへ送り届けた。信長は大いに喜び、勝家に感状を送ったという。かくして勝家は「瓶割り柴田」と讃え称されることになったのだ。