(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)
謎の人物「康政」とは?
土佐一条家、事実上の最後の当主・一条兼定に仕えた家臣の1人、「康政」(やすまさ)とは、どんな人物だろうか?
読者の皆さんが思い浮かべる兼定家臣といえば、ゲームや小説などに登場し、脚色された土居宗珊(宗算)をはじめ、安並・為松・羽生の「四家老」や「一条殿衆(畑衆)」(『一条旧記』ほか)と呼ばれた人々かもしれない。
しかし、土居宗珊が筆頭家老という事実はもちろん、宗珊が土佐一条の一門(教房あるいは房家子息とする説がある)であるとか、「四家老」の人々や「一条殿衆(畑衆)」の詳しい動向や来歴は、良質な一次史料(同時代に記された文書や日記など)からは動向が一切、確認できないのである。
ただし、家老かどうかは別にして為松の名前は、『大乗院寺社雑事記』文明15年12月11日条にみえる。また、年代は遡るが同史料の文明元年5月15日条には、在地領主の加久見宗孝(一条房家の外祖父)ら数人の叙位任官されたことが確認できる。
しかし、康政は違う。康政は、一条兼定が領地を統治していた時代に発給した土佐一条家が発給したほぼ全ての文書の「奉者」として名前が確認できる人物である。とはいえ、その名字(苗字)すらハッキリしてないのである。注意が必要なのは、その康政が発給した奉書さえ、ほぼ後世の写(うつし)でしか確認できないことだ。
これまで、康政は土佐一条家の一門であるとか、小松谷公範(覚桜)であるとか、一条兼定自身であるとか、色々な説が唱えられてきた。現在では、摂関一条家に古くから仕える醍醐源氏の流れを汲む人物であるという朝倉慶景さんの推定が、おおむね支持されている。しかし、どの主張も決め手に欠けていて、彼(康政)の名字(苗字)など、出身は不明であると言わざるを得ない。
仮にも一条兼定の側近くで「奉者」として仕え、時には直接、外交交渉文書(奉書)を発給するなどの権限をふるっていた人物がどこの誰だかわからないのである。
かつて筆者(中脇)は、この康政を摂関一条家から土佐一条家に派遣された「付家老」(江戸時代でいえば、将軍家から御三家の尾張・紀伊・水戸藩に派遣され家老たちが有名)的な立場の人間だったのではないか?と推定した。
つまり、若年の一条兼定を補佐し、摂関一条家の意向を反映させるために派遣された家臣だったのではないかとした。
一説には、兼定が文書を発給していない背景に、康政による「下克上」(下の勢力が上の勢力を超えること)があったのではないか?とする推定もあるが、これには賛同できない。この点について詳しく考えてみたい。