晒し首にされた「串刺し公」ヴラド
15世紀ルーマニアの暴君として人々を震撼させた、ヴラド・ツェペシュもやはり無惨な最期を迎えている。ヴラドは1456年にワラキアの君主になると、主教や修道院長らを呼び寄せて、彼らにこんな質問をした。
「これまで何人の君主に奉仕してきたか?」
すると「7人です」「ざっと20人はくだりますまい」「私の場合は30人」などとまるで、仕えてきた主君の数を誇るかのような答えが返ってきた。この頃のワラキアでは、君主の力が弱く、地方貴族が力を持っていた。そのため、君主の平均在位期間がわずか3.1年で、次々とリーダーの首がすげ替えられていたのだ。
そうはさせまいと、ヴラドは一定の人数以上の君主に仕えていた500人あまりの貴族を逮捕。次々と処刑している。その後もヴラドは反対勢力と見れば、次々と粛正を行った。実に4年間で2000人以上を処罰したといわれている。
ヴラドが人々を戦慄させたのは、処刑した人数ではなく、処刑の方法である。ヴラドは「串刺し」で処罰することを好んだ。先端を尖らせた柱を肛門から突き刺して、体を貫く。さらにその柱を地上に突き立て、死に至らしめるという恐ろしい処罰法である。
もっとも、串刺し自体は中世のヨーロッパでは時折行われていたが、ヴラドはあまりに多くの人数を串刺しにしたため、「ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)」と呼ばれて、恐れられた。しかも、ヴラドは串の先端をわざと少し丸くすることで、即死させずに悶え苦しむ様を楽しんだという。
だが、君主がそんなヴラドだからこそ、他国との戦闘となれば兵士は命がけで戦った。1462年に強国オスマン・トルコから侵攻されたときは、ヴラドは少数の兵を叱咤激励して、見事に撃退している。戦争で命を落とすよりも、負けた罰としてヴラドに串刺しにされるほうが恐ろしかったからだろう。
その後、ヴラドはいったん弟に君主の座を奪われるも、1476年に取り返して、再びワラキアの公位に返り咲く。だが、わずか1カ月後にトルコ兵との戦闘中に暗殺されてしまう。ヴラドの首はトルコ兵に切り落とされ、串刺しにされて晒し首にされた。
恐ろしき独裁者の死は国民にとっても喜ばしいはずだが、時代が下れば「頼れるリーダーだった」と懐かしくもなるようだ。ヴラドの死から400年後、ルーマニアの大詩人ミハイ・エミネクスは『第3の手紙』で社会の堕落を描くと同時に、ヴラドについてこう表現している。
「ヴラドは、残虐な暴君で血塗られた独裁者だった。そして、誰よりも頼もしい孤高の君主だった」