松川大橋を渡った先も舗装道が続いているが、道は大きくカーブし、先は見通せない。

 この先はどうなっているのか、なぜ車両通行止めなのか。なぜ歩行者は通れるのか。その答えは、車両通行止めゲートの近くにあるもう一つの看板を見るとわかる。

松川大橋の手前にある、十和田八幡平国立公園の案内図
拡大画像表示

 地図の黒線が自動車道、緑線が登山道、赤線が通行止めの道路(ほぼ舗装されている)だ。

 現在地/松川大橋(画像上部)から少し先(南方向、1.8km)で赤い通行止め道路が終わり、その先は緑の登山道になっている。一方、大松倉橋(画像下部)のところには、北に向かう赤い通行止め道路があり、その先は登山道につながっている。

 これが意味することは一つ。松川大橋から大松倉橋までの区間に、自動車道を通そうとして、未完成のまま、ということだ。

1964年に工事開始

 話は半世紀以上前の1964年(昭和39年)にさかのぼる。この年の6月24日に、「奥地等産業開発道路整備臨時措置法」(通称「奥産道」)が制定された。「交通条件がきわめて悪く、産業の開発が十分に行なわれていない山間地、奥地」などを対象に、国の補助を受け地域間交流や観光資源の活用を念頭にした道路を建設することが目的だ。

 日本の高度成長期まっただ中だった時代だ。「奥地」と言われるようなところにまで道路網を張り巡らすことで、日本全体をもっと発展させよう、という気持ちがあっただろう。その一環として計画されたのが、岩手県雫石(しずくいし)町と松尾村(現在の八幡平市)を結ぶ、延長約16kmの県道(212号)だ。

 雫石付近と八幡平付近は、ともに岩手県有数の観光地だ。ところが両者のちょうど間に、岩手県の最高峰、岩手山があり、短時間での行き来がしにくかった。通常は岩手山の東側(盛岡市)を迂回することになるのだが、岩手山の西側に自動車道を通せば、もっと便利になる、と考えられた。その途中も風景を楽しめる山岳観光道路としても期待されるものだった。

 工事は1965年と1966年に雫石と八幡平の両側から始まった。次の地図は、八幡平、雫石、岩手山の位置関係を示したものだ。

 ところが、そのころから、日本では自然保護運動が盛り上がり始めた。

 上の地図の濃い茶色部分は十和田八幡平国立公園を示している。つまり、計画道路が国立公園の一部を縦断している点が指摘され、6年後の1971年に工事が中断されてしまう。記事前段で触れた小畚(こふご)橋(1972年竣工)は、この中断直後に完成したものだったのだ。