アメリカが教育データの利活用を進めてきた背景
例えば、お前の息子の成績が急落して困っていたとする。大変ですね。勉強しろ。……で、学校からすれば「通っている子どもの成績というデータ」を読み取って、教育の現場にいる教師がこの子は成績が急落しているのだから、理由を把握し手厚く見てみようとなるかもしれません。そこで子どもの成績が改善していけば、その子にとってデータ活用は福音です。ありがとうGIGAスクール。
しかし、実際には日本でもアメリカでも欧州でもイギリスでも、「何が子どもの成績を急落させているのか」という観点からデータ利活用する場合、たいていにおいて、成績が落ちた子どもごとの理由にぶち当たります。
往々にしてあるのは、親の虐待が増えた、親が失業して経済的に大変なことになった、親が離婚した、親が病気したなど、子ども本人ではない家庭環境の劣化が勉強どころではない状況を作り出し、家庭学習の時間が減少して成績が下がるということは多くあります。
では、子どもの成績急落が家庭環境の問題だとして、そこに教育の現場を任される教師が立ち入るべきなのかという議論はどうしても出ます。学校の教師はただでさえクソ忙しいのに、学校から離れて子どものプライベートにまで立ち入って成績改善させるなんてことは不可能です。
加えて、子どもに日記を書かせて感情の内面や家庭環境まで、学校が自治体の子ども見守り事業とともに児童福祉の文脈で入り込むことは極めて危険と言えます。学校で得た教育データを自治体の児童福祉事業で活用させるのは、学校における子どもの個人情報の取得目的から完全に逸脱しているのは間違いなく、大阪府箕面市や奈良県葛城市の取り組みとかもう完全に違法と言えます。何を考えてるんでしょうね。
アメリカでは、91年のミネソタ州チャータースクール法以降、ある種の新自由主義的なデータ利活用が公教育の現場に入り込み、様々な問題を引き起こしました。児美川孝一郎さんが指摘するような弊害を及ぼすであろうことは自明です。
明治時代から変わらない、大部屋の教室で一同揃って机を並べて授業することが妥当なのかが問われる一方で、アメリカが直面するような初等中等教育におけるドラッグや妊娠、拳銃、離婚などの脅威から子どもを守るために教育データの利活用を進めてきたバックグラウンドと、日本の教育デジタル化を一緒くたにするのはどうなのかとも思います。