情報化もいいけど何のための教育なのか?

 この政策はどこに向かってるんだよ。なんというか、教育情報化政策は行き先のないバスに乗せられた気分になります。日本社会は、文教政策を通じて子どもをどう育てて、社会で生きる能力をどのように磨き、豊かで幸せな人生をどのように歩んでもらおうとしているのか、それが良く分からなくなっているのが実際じゃないかと思うんですよね。

 親でさえ、この社会の未来がはっきり見えず、希望を持つのも難しいのに、子どもに「おう、お前らこれをやったらとりあえず安泰だぞ」と自信をもって言えるものがあるのかどうか。

 この「戦後」を終えた日本社会に、子どもに成功のロードマップや人生のモデルケースを用意できないのは文部科学省だけでなく、日本社会を生きる大人たち全員の問題じゃないかと思います。

「教育データ利活用」は本当に「地獄への道」なのか?(https://diamond.jp/articles/-/297329)

 例えば、中室牧子さんという教育経済学を専門とする人が、デジタル庁の教育データ利活用に関する政策を立案されているようです。私も統計を知る人間として、中室牧子さんの著した『「学力」の経済学』や津川友介さんとの共著『「原因と結果」の経済学 データから真実を見抜く思考法
』は一般の人でも分かりやすい、「データから物事を考えるとは何か」を導いてくれる良書だと思います。カネを出して読め。

 これが、データの重要さを説き、そのデータに基づいて政策を審議し、効果のある政策を実施することで国民の生活が便利になり、より良くなるのだというEBPM(エビデンスベースト・ポリシーメイキング)とかいうロジックにつながっていくわけであります。

 公教育の未来を考えるにあたっては、これだけみんなスマホだパソコンだと使うようになったのだから、こういった新しいICT技術を使おうというのは当然の主張です。もう少し子ども一人ひとりにあった教育を実現するにあたり、データに基づいて根拠のある教育をやればもっと良くなるのですから、教育データの利活用は適正な手法であるならば、おおいに進めるべきだと私も思います。

 原則賛成ではありつつも、データを取ると言ってもすべてが評点にできるものとは限りません。特に人間そのもの、それも発展途上の子どもたちのすべてをデータ化できるものばかりではなく、特に教育の分野にはデータ化できないものがあります。それでも、「これは教育のために必要だ」と思えるものを適切に教育データとして取り、教育の現場に役立てよう(教育データの標準化含む)というのは必要な議論です。