そうやって国外に出たアイルランド人の傭兵が活躍したのは、やはり主にカトリックの国でした。1639〜1640年には、約5000人がフランスで従軍しています。また1652〜1654年には、スペインの軍隊で働くために2万5000人が、そしてフランスの軍隊の傭兵として1万〜1万5000人が、アイルランドから送られたとされます。
逆に、アイルランドを支配下におくイングランドの軍隊では、当初、アイルランド人の兵士を受け入れていませんでした。当時イングランドの大きな脅威となっていたスペインはやはりカトリックの国で、アイルランドとは親密な関係にありました。そのアイルランド人の兵士をイングランドの軍隊に加えるわけにはいかない、という考えが強かったのです。
しかしもう一つのライバル・フランスとの戦争を継続するための十分な軍勢を、プロテスタントの兵士だけで賄うことは次第にできなくなってきました。そのため1730年代になってようやく、カトリック、プロテスタントを問わず、陸上生活者を海軍にリクルートするようになります。
こうしてアイルランド人の傭兵は、カトリックの国を中心としながらも、ヨーロッパ各国で重宝がられる存在となり、「ワイルド・ギース」(野生のガチョウ)の名で広く知られるようになったのでした。
オーステンデ会社
国外に飛び出したアイルランド人には、軍隊に向かう者だけでなく、商業に従事する者も多くいました。
アイルランド商人は、いくつもの地域に広がりました。とくに、ロンドン(イギリス)、ナント、ボルドー(ともにフランス)、カディス(スペイン)には大きな居留地を築いています。
現在のベルギーにあたるスペイン領フランドル(南ネーデルラント)は、カトリック教徒が多く住む地域でしたので、アイルランド人にとって移住先、そして取引先として魅力ある土地でした。
当時、ヨーロッパの経済的中心地のひとつであった南ネーデルラントは、イングランド、オランダ、フランスの大西洋経済と大きく関係していました。英仏海峡と北海南部の諸港が、南ネーデルラントとの取引関係を強めたからでする。南ネーデルラント最大の港がオーステンデでした。
現在のベルギーの港湾都市ダンケルクを1661年にフランスが自国領にすると、フランドル地方とブラバント地方を背後に抱えるオーステンデが、唯一の国際的貿易港になりました。このオーステンデに1650〜1670年頃に有名なアイルランドの商家がいくつも居を構えるようになると、この都市は貿易によってさらに繁栄することになりました。
1722年、神聖ローマ皇帝カルル6世は、オーステンデにある重要な貿易会社を設立しました。「オーステンデ会社」です。同社は、1722〜1727年の短期間しか活動しなかったのですが、皇帝に利潤の6%を提供する条件で、東西インドとアフリカとの貿易特権を与えられ、多いに活躍しました。この会社には、アイルランドからオーステンデに移住した人々が参画していました。
このオーステンデ会社が消滅するのとほぼ同時期に、スウェーデンが「東インド会社」を設立しました。1731~1813年に活動したスウェーデン東インド会社は、中国の広東から茶を輸入することにほぼ特化した会社でしたが、ここにオーステンデ会社で貿易活動にあたっていた人たちも参画していたようです。であるならば、オーステンデに移住したアイルランド人が、さらにスウェーデン東インド会社でも活躍したと考えたほうが自然でしょう。