クロムウェル、カトリックを弾圧
しかし、そうした圧迫はさらなる反乱を呼び込むことになります。
1641年、アルスター地方で大規模な反乱が起こります。このころイングランド国内は混乱期にあり、アイルランドの反乱鎮圧まで手が回らない状況でした。イングランドの混乱はさらに悪化し、王党派と議会派とがぶつかり合う内戦状態となります。いわゆる清教徒革命です。1648年、イングランドは王政が廃止され、共和制の国となり、国王チャールズ1世が処刑されてしまいました。イングランドの内戦を終結させ、政治の指導者となったのは、軍人のクロムウェルでした。
するとクロムウェルは、1649年から、まだ反乱が続いていたアイルランドに大規模な軍隊を送り込みます。このとき、クロムウェルの軍隊は、多数のアイルランド人を虐殺し武力平定を進めました。全てのアイルランド人の改宗を目指したクロムウェルは、カトリック教徒処罰法を制定し、また反乱に加担した者からは全財産を没収、加担しなかった者からも土地を取り上げ、代替地として荒野をあてがうなど、苛烈な対応をしたのでした。こうして、イングランドのアイルランド支配は強固なものとなりましたが、清教徒革命を終わらせた軍人政治家と歴史に名を残したクロムウェルも、アイルランドでは極めて悪名高い人物として記憶されることになるのでした。
傭兵としてヨーロッパ各地へ
時代を少し遡りますが、テューダー朝時代のイングランドがアイルランドへの宗教的弾圧を強めると、アイルランドのカトリック教徒の中には、アイルランドを脱出し、ヨーロッパ各地に渡る人々が増えていきました。特に傭兵として各地に渡るケースが目立ちました。
宗教戦争をはじめとする戦争が増えた近世においては、兵士に対するニーズが高まったので、人々が「兵士になるため」に移住することは珍しいことではありませんでした。特に貧しい国の人々の目には兵士になることは魅力的な選択肢でした。アイルランドの人々にとっても同じことが言えます。
当時は、戦争で傭兵を利用するのが一般的でした。大勢の兵士を常に抱えておくことはどの国にとっても財政的負担が大きくなるので、必要な時に傭兵を使うのです。戦争があれば兵士の数は増え、戦争が終われば減る、というのが当時の常識でした。
1648年、中欧では21万人が軍隊に雇用されてましいた。また1710年にはフランスだけで25万人が軍隊で働いていましたが、平時にはその数は12万人へと削減されていました。軍事奉仕は厳しく、報酬は少なかったので、北西ヨーロッパの裕福な人々にとってこの「仕事」は魅力的ではなく、リクルートされる兵士には、浮浪者や犯罪者が多かったようです。
そういう状況の中にあって、アイルランド人の中には傭兵となって国外に出ていく人が多く見られました。背景には、アイルランドの貧しさとイングランドによる宗教的迫害がありました。1580年代から1630年にかけて、そしてクロムウェルのアイルランド征服後の1652〜1691年に、同国から大量の人々が傭兵として出国していることが記録に残っています。クロムウェルによるアイルランド征服が、アイルランドの人々の国外脱出をいっそう推し進めることになったのでした。