左から、渋沢栄一と西郷隆盛

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(3)「渋沢栄一③」自ら薩長藩のスパイを買って出た渋沢の驚くべき行動https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64525

渋沢栄一と薩摩藩

 いよいよ、大河ドラマ「青天を衝け」もクライマックスを迎えつつある。「渋沢栄一とゆかりの人物」も最後の連載となるが、今回はまさに渋沢栄一とゆかりのあった人物群像を紹介してみたい。その第一弾として、西郷隆盛を取り上げよう。

 元治元年(1864)2月8日、平岡円四郎から推挙された渋沢は、一橋家に仕官することが叶った。奥口番・御用談所下役出役で出仕(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)し、4月中旬に御徒士に昇進した。平岡は渋沢の政治力に目を付けており、非常に高く評価していたため、渋沢は一橋家に仕官した当初から御用談所に勤務し始め、一橋慶喜のために探索・周旋活動を行う非常に重要な政治的ポジションを与えられたのだ。渋沢は朝廷・幕府・諸藩の関係者と常に接触を持ち、機密情報にも精通することになった。まさに、一橋家の外交官である。

 渋沢は平岡の密命を受けて大坂に下り、2月25日から4月7日までの間、薩摩藩士の摂海防禦御台場築造御用掛・折田要蔵の門下生となって、薩摩藩の動向を探るスパイ活動に従事した。折田は兵学者として高名を博し、この時期には幕府から摂海(大阪湾)での砲台造営を依頼されていた。慶喜は禁裏御守衛総督摂海防禦指揮に任命(3月25日)されており、抗幕姿勢をはばからない薩摩藩に属する折田の動向は監視すべき対象であったのだ。その間、渋沢は折田を通じて、薩摩藩士の奈良原繁・川村純義・三島通庸・海江田信義・内田政風・高崎五六ら錚々たるメンバーと懇意となっていた。

薩英戦争時、折田要蔵は砲術に精通していたことを買われ、砲台の建造と大砲製造の主事を務めた。

 西郷隆盛は元治元年3月14日の上京後、家老で島津久光の名代的存在であった小松帯刀の下、吉井友実と他藩との交渉や廷臣への入説を担当していた。渋沢と同様に、西郷も探索・周旋活動を実行していたのだ。禁門の変に向けた慌ただしい政治状況の中で、西郷はできる限り他藩の周旋担当者と接触を繰り返しており、既に薩摩藩士に知己が多い渋沢ともこの段階で出会うことになる。