やがてパリの駐仏公使の顧維均から電信が届き、フランス外務省から地図を使って説明を受けた結果、「フランスが占領した島の名称は南沙諸島である」と報告してきた。

 国民政府外交部は世論の鎮静化に努めたが、騒動は収まらず、話がどんどん膨れ上がっていった。曰く、「西沙諸島で活動する漁民は一万数千人」「フランスが占領した島で居住する漁民は数万人」と、根拠不明の抗議文や要望書が数百件に及んだ。

「申報」内部では、記者が経緯度の計算を間違えて誤報を流したことが発覚し、慌ててフランス批判を取りやめた。だが、負け惜しみは続き、「きっと南沙諸島も自分たちのものにちがいない」、「いや、絶対に自分たちのものだ!」という、希望的観測を交えて世論に訴えた。背景には、日本が東北地方を奪って「満州国」を建国したことへの危機感があった。世間はさらに沸騰した。

南沙諸島領有の根拠とされる古地図学者の手による地図

 そうした風潮の中、決定的な役割を果たしたのが、古地理学者の白眉初(はくびしょ)だった。以下、時系列で示そう。

 1933年、国民政府内政部では、欧米で作成された南シナ海の島嶼名を、英語から中国語に翻訳した。1935年、中国語名を書き入れた「中国南海各島嶼図」を刊行した。

 1936年、白眉初は地図帳『中等学校適用 中華建設新図』を製作・刊行し、『中国南海各島嶼図』」を「海疆南展後之中国全図」と名前を変えて、そのまま地図帳に組み入れた。その際、中国語で書かれた南沙諸島のこまごまとした島の名前をすべて太い赤線で取り囲んだ。「海疆南展後之中国全図」とは、「明清時代から南へ拡張した中国全図」という意味である。

白眉初による「海彊南展後之中国全図」(『中等学校適用 中華建設新図』所収、北平建設図書館刊行、1936年)
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 白眉初の赤い太線を見て喜んだのは、国民政府内政部だった。地図学者の発案による学術的な権威がつき、正当性を認められたと解釈したからだ。