怖い話は、まだある。そもそも南沙諸島の領有権主張は、元を正せば、中国の勝手な勘違いから始まったドタバタ喜劇により、「願望」と「期待」が膨れ上がり、さらに「断定」から「事実」へと大きく変化していった歴史的な経緯がある。

存在を知らなかった南沙諸島がフランス領になると大騒ぎ

 ドタバタ喜劇は、一本の誤報から始まった。慶應義塾大学の嶋尾稔教授の論文「20世紀前半のスプラトリー諸島に対する中国の関与に関するメモ 補遺」に従って、その顛末を見てみよう。

 当時、ベトナムを植民地にしていたフランスは、1930年4月、ベトナムの周辺海域を調査し、スプラトリー諸島(南沙諸島)とその従属島を発見し、「無主地先占」(所有者のいない土地は発見者が占有してよい)という国際ルールに従い、ボルネオ島を領有していたイギリスと外交交渉を経て、1933年に領有すると宣言した。

 それを聞きとがめたのが上海の新聞社「申報」だった。1933年7月15日、「申報」は「九小島(西沙諸島の通称)は中国領だ」「フランスが中国の領土を奪った」と非難し、フランス批判の大キャンペーンを展開した。

 当時の中国では、南シナ海に南沙諸島があることをまだ知らず、領土の南限は西沙諸島だと思っていた。そのため世間では大騒ぎになり、様々な団体や組織が国民政府に続々と上申書を提出し、取り戻すようプレッシャーをかけた。

 2日後、国民政府外交部は、駐マニラ総領事館と海軍部、広東省政府、駐仏大使館に連絡し、「『九小島』は本当に西沙諸島なのか、中国漁民の居住者がいるのか」と調査を指示した。海軍部から返答が届き、「東経115度北緯10度はフィリピンとベトナムの間ではなく、『九小島』も存在せず」として、西沙諸島ではない旨を連絡してきた。広東省政府に確認を急がせたが、調査に手間取った。

 その間にも、全国の行政機関からフランス批判の声が上がり、「フランスに厳重抗議し、領海主権を保持するよう要望する」、「悲憤慷慨:フランスの暴挙を満州事変とともに、絶対許すな!」など、次々に要望書が国民政府に届いた。「申報」は、「フランスが占領した九小島に国民政府が軍艦を派遣した」(香港電)と、誤報を流した。