(廣末登・ノンフィクション作家)

 工藤会と草野一家の長い抗争の末、昭和62年に合併して誕生した工藤連合草野一家は、平成2年12月9日、溝下秀男がこれを継承することとなり、二代目体制が発足した。名誉総裁に工藤玄治、総裁に草野高明、若頭に野村悟という布陣となった。

 前回の記事でも触れたが、二代目体制以降、他の暴力団組織との抗争は目立たなくなったが、代わって一般人の店舗などへの襲撃が続いた。

(前回記事)「工藤会と草野一家、抗争の果ての統合で残った禍根 〈工藤會の歴史〉第二部:小倉が修羅の街になるまで」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67786

 平成6年9月から10月にかけて、企業やパチンコ店に対し16件の発砲事件を敢行している。

 そして大きな転換点となったのが、平成10年2月、元脇之浦漁協の元組合長・梶原國弘さんが小倉北区のスナック前で射殺された事件だ。背後には公共工事の利権を巡るトラブルがあったとされている。殺害の実行犯としては、工藤連合草野一家幹部・中村数年ら3名が、6年後の平成16年6月に逮捕されている。

工藤連合草野一家から工藤會、そして四代目工藤會への改称

 事件の翌年、つまり平成11年の1月に工藤連合草野一家は「工藤會」と名称を変更、さらに1年後の平成12年1月には「四代目工藤會」となった。野村悟が四代目を襲名した。会長だった溝下秀雄は総裁となり、工藤會の実権は野村悟が掌握するようになる。同時に、工藤會による一般市民への暴力はさらに過激になっていった。

 時にはその牙は政治家にも向けられた。平成12年6月から8月にかけ、山口県下関市にある衆議院議員・安倍晋三氏の自宅車庫や事務所に火炎瓶が投げ入れられる事件が発生。この実行犯として、工藤會系組員らが逮捕された。

 また象徴的なのは、小倉北区鍛冶町の高級クラブ「ぼおるど」への攻撃だ。この店の経営者は、暴力団監視員等を務め、暴排運動のリーダー的存在だった。その「ぼおるど」店内に、平成14年4月、糞尿が撒かれる事件が発生、工藤會系組員らが逮捕された。

 また翌年5月には、同店の支配人が帰宅途中、小倉北区内のコンビニ前で何者かに襲われ、胸を刺される事件が発生している。

 そして、工藤會が起こした事件の中で、現在に至るも、最凶、最悪の惨事として語り継がれる事件が起きる。平成15年8月18日の夜のことだ。ぼおるど系列の「倶楽部ぼおるど」に、攻撃型手榴弾が投げ込まれたのだ。爆発で女性従業員ら12名もの重軽傷者が出た。実行犯は四代目工藤會・田中組組員だった。この組員は、現場において「倶楽部ぼおるど」の従業員らに取り押さえられた際の胸部圧迫が原因で死亡している。

 この「倶楽部ぼおるど事件」で、被害者側に死者が出なかったのは奇跡だった。当局関係者から後日談で聞いた話だが、襲撃に使用された攻撃型手榴弾は、保管の仕方が悪かったからか湿気ていたようだ。さらに、店内に投擲した際、ホステスの頭に当たり壁際に落ちた。この二つの偶然から死者を出さずに済んだのである。

 ぼおるどの経営者(「倶楽部ぼおるど」と高級クラブ「ぼおるど」は同じ経営者)は、暴力追放を目指す団体の役員を熱心に務め、組員の入店を拒否するなど、地域の暴追運動の象徴的存在であったため執拗に攻撃されたのだ。手榴弾事件の翌月には、「倶楽部ぼおるど」に、けん銃実弾入りの脅迫状が届いた。この店は、3日後に閉店した。「ぼおるど」のほうも平成16年に廃業した。