(廣末登・ノンフィクション作家)
「なんだこの裁判は。全然公正やない。あんた生涯、このこと後悔するよ」
わが国で唯一の特定危険指定暴力団である工藤會の総裁であり、北九州元漁協組合長射殺事件など「市民襲撃4事件」の首謀者とされ、殺人や組織犯罪処罰法違反(組織的殺人未遂)の罪に問われていた野村悟被告(74)は、8月24日、福岡地裁で死刑判決を言い渡された際、裁判長にこう語ったという。
死刑判決は確かに予想外だった。なにしろ野村が事件に関与したことを示す直接証拠はないのだ。それでも、福岡地裁は野村が組織内で絶対的な立場にあったことを重視し、「工藤會の重要な決定は、最終的に野村被告の意思で行われていたと推認するのが合理的」として、検察側の求刑通りの死刑判決を下した。足立勉裁判長は「暴力団組織が一般市民を襲撃するという極めて悪質な犯行」と断罪した(野村被告は翌25日に控訴)。
いかにして「日本最凶」の集団は作り上げられたのか
暴対法、暴排条例によって手かせ足かせがはめられた暴力団の多くが慎重な行動をとるようになる中、北九州市に本部を置く工藤會は暴力性を失ってこなかった稀有な存在だ。場合によってはカタギの人間に牙をむくことも厭わぬその姿勢は、「日本最凶」「最も先鋭的な武闘派組織」などと称されてきた。
その象徴が、今回の裁判で扱われた、北九州元漁協組合長射殺事件(平成10年2月18日発生)だろう。犯行を配下の組長らに指示したとして野村被告が殺人・銃刀法違反の容疑で福岡県警に逮捕されたのは平成26年9月11日。それから今日まで、マスコミでは「9.11」と呼び、毎年、この日に合わせて工藤會の特集ニュースを流している。
ただこうしたニュースでは、現総裁の野村悟が四代目を継承した平成12年以降のニュースを断片的に紹介するに留まっており、「日本最凶」の暴力団がいかにして出来上がったかには触れていない。そこで本稿から3回に分けて、前身である工藤組結成から今日まで、工藤會の歴史を概観してみたい。
なお、本稿では、戦後から近年までの長い歴史を駆け足で紹介すること、口伝などの情報に基づくことから、もしかすると若干の事実の誤認や、登場人物の名前の間違いなどが生じる可能性があるが、これは筆者の責任である。予めご了承頂きたい。