(廣末登・ノンフィクション作家)

 前回も触れたが、昭和52年5月、殺人等の罪で高知刑務所に服役していた工藤組の元若頭・草野高明が、高知刑務所から出所した。この時の出迎えには、福岡県内から400名、関西などから500名が参集したという。「ヤクザ黄金期」らしい出迎えと言えよう。

(前回記事)唯一の「特定危険指定暴力団」工藤會が「最凶」になるまで
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67212

 しかし、工藤会(草野元若頭の服役中に「工藤組」から「工藤会」に名称を変更)からは、工藤玄治会長に無断で組を脱退していたために、出迎えはなかったという。一方で、この時、三代目山口組の田岡一雄組長が高知まで出向き、出所祝いの宴を主催したと伝えられている。こうした経緯もあり、草野元若頭と山口組には縁が出来ていった。

「草野一家」結成

 さて、未決勾留中に「工藤組からの脱退、草野組の解散」を表明していた草野元若頭だったが、帰福すると、すぐに「草野一家」を結成した。この一家の立ち上げは、西宮市二代目松本組・竹田辰一組長の取り持ちによるものであった。竹田組長と草野組長は、工藤会の工藤玄治会長と会い、「賭博一本で工藤会のシマを荒らさないこと」を条件に一家の立ち上げを認めてもらった。

 草野一家の本部は、小倉駅前にあった草野の実姉が経営する旅館「つな」に定められた。ただこの後、工藤玄治会長が、「草野に極道は許したが、看板を出すことは認めない」と発言したことから、後々の火種を残すこととなったと言われている。

 草野一家は発足してすぐに急速に勢力を拡大させていった。その原動力となったのは、ある男の存在と言われている。昭和53年12月、草野一家田川支部長・天野義孝と盃を交わして草野一家に加わった、溝下秀男である。

 溝下は率いていた愚連隊・溝下組ごと草野一家に加わった。この草野一家田川支部溝下組は、54年9月、溝下秀男が草野高明の舎弟となることで「極政会」へと名称を変更。溝下秀男が加わることで、以後、草野一家は拡大してゆく。さらにこの溝下は、間もなく始まる工藤会と草野一家の抗争――いわゆる「小倉戦争」の最前線に立ち、その後は抗争終結に大きな働きをすることとなるのである。