日本を亡国に導く一因となった「日独伊三国同盟」の締結(1940年)。なぜ日本は、元々は敵対的だったドイツと軍事同盟を結んで米英と争い、ともに敗北へ向かっていくことになったのか。その裏には、日独協力の必要性を確信し日独同盟の締結を推進した一人の人物がいた。「駐独ドイツ大使」とひそかに揶揄されるほどドイツに傾倒していた軍人外交官、大島浩(1886~1975年)である。敗北必至の戦争につながる同盟が締結されるまでの日本側の動きを、現代史家・大木毅氏の著書『日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』(角川新書)から一部を抜粋・再編集して紹介する。(JBpress)
大島の「ビョルケの密約」理解
日露戦争から第1次世界大戦のあいだに、大島浩は日独同盟論を抱懐(ほうかい)するに至る。その端緒となったのは、「ビョルケの密約」という史実である。
日露戦争中、奉天会戦のあとで、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、当時ロシア領であったフィンランドの港町ビョルケで露帝ニコライ2世と会談し、ドイツはロシアに兵を向けることはないとの保証を与えた。ゆえに、ロシアは安心して、ヨーロッパ・ロシアの軍隊を極東に差し向けることができた。それがために、日露戦争の最終盤において、日本は満洲のロシア軍に決定的な打撃を与えることができず、意に染まぬ不利な条件でポーツマス講和条約を結ばざるを得なくなったのだ・・・。
これが、大島の主張であった。すなわち、日本陸軍の宿敵であるロシア、さらには、その後継国家であるソ連と対決するにあたり、ドイツをも敵にまわしてはならない。味方となって兵を出してくれるようなことまでは望まぬとしても、ロシア=ソ連に脅威を与え続け、日本の負担を軽くしてもらうために、ドイツとの友好を保たなければならないのである。