ソ連軍の反攻に遭ったハインツ・グデーリアンをさらに幻滅させたヒトラーの「死守命令」。たびたび衝突していたクルーゲ元帥との対立はクリスマスに頂点に達し、グデーリアンは窮地に追い込まれる。華々しい緒戦の勝利にもかかわらずドイツを敗戦に至らしめたものは何だったのか。『「砂漠の狐」ロンメル』『独ソ戦』の著者である大木毅氏が、伝説の戦車将軍グデーリアンにせまる。第3回/全3回。(JBpress)
(※)本稿は『戦車将軍グデーリアン「電撃戦」を演出した男』(大木毅著、角川新書)より一部抜粋・再編集したものです。
第1回 実は弱かった?ドイツ戦車が対ソ侵攻に失敗した理由
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59644
第2回 ヒトラーと将軍たちの対立、正しかったのはどちら
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59645
ソ連軍の反攻
1941年から1942年の冬は、記録的な厳寒であった。11月12日、グデーリアンの戦区の気温は零下15度に下がり、翌日にはさらに零下22度になる。12月5日、「台風」作戦の尖兵であった第2装甲軍と第3装甲集団は攻撃を中止した。
この日、カリーニン方面で、ソ連軍の反撃が開始された。翌12月6日、それは全面攻勢に発展する。疲れ切ったドイツ軍には、とうてい赤い津波を支えることはできず、たちまちモスクワ前面から敗走する。ポーランド侵攻以降、無敵を誇ってきたドイツ国防軍が、初めて敗北の苦杯を嘗めたのである。
モスクワの屈辱は、政府と国防軍首脳部に深刻な危機感を抱かせた。国防軍の最高司令官である総統ヒトラーは、この苦境を切り抜けるべく、いわゆる「死守命令」、いかなる犠牲を払おうと寸土も譲らず抵抗せよとの指示を連発した。
陸軍総司令官ブラウヒッチュや北方・中央・南方の各軍集団司令官をはじめとする高位の軍人多数が、かかる方針に反対し、ために罷免されるに至ったことはよく知られている。グデーリアンも、ソ連軍の反攻に遭って、退却やむなしと唱えるようになったことをきっかけに解任される。けれども、彼の場合は、より複雑な事情があるようだ。
意外にも、グデーリアンは当初、前線の危機に対応できない上官たちに不満を覚え、ヒトラーの積極的な関与を望んでいた。たとえば、12月17日付の第2装甲軍作戦参謀戦時日誌には、グデーリアンが軍中央に辛辣な批判を加え、ヒトラーの「いつもながらの行動力」を期待していると書かれている。その数時間後、彼は幻滅を味わうことになる。