1936年、第11回オリンピックがドイツのベルリンで開催された。国際オリンピック委員会(IOC)はスポーツと政治の分離を表明するも、大会は第2次世界大戦直前の国際政治情勢に翻弄される。その4年後、東京で開かれるはずだった第12回大会は中止に追い込まれ、幻と消えてしまった。戦火と国策が「平和の祭典」に与える影響を、元NHK記者・橋本一夫氏の著書『幻の東京オリンピック』からひもとく。全2回。(JBpress)
(※)本稿は『幻の東京オリンピック』(橋本一夫著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。
1936年、ベルリン大会開催まで
当初オリンピックに否定的だったヒトラーは、政権掌握後一転して、ベルリン大会支持を声明し、会期を1936年8月1日から16日までと決定した。過去の気象記録により、この期間が最も天候が安定していると推定されたからである。
大会組織委員会としては出費をできるだけ抑制する腹づもりでいたが、1933年10月5日、ベルリン郊外グリューネヴァルトのメーンスタジアム建設予定地を視察したヒトラーは、競技場の模型を見て、計画が小規模に過ぎると指摘し、新スタジアムは国家が建設すべきだと断言した。
「それがわが国に課せられた義務である。ドイツが世界各国を招待するのだから、準備は完璧かつ壮大でなければならない。スタジアムの外装はコンクリートでなく自然石とすべきだ。400万人の失業者がいるのだから、どんな工事も可能だろう」
ヒトラーはそう言明し、5日後の10月10日、総統官邸で開かれた会合で、宣伝相ゲッベルスらの閣僚や組織委員会幹部を前に高らかにぶちあげる。
「きたるべきオリンピックで、われわれは新ドイツの文化的業績と実力をはっきりと示さねばならない」
ヒトラーの言葉で、第11回オリンピック・ベルリン大会は根底から変質した。大会のあらゆる準備が、従来のオリンピックをはるかに上回る規模で、ドイツ「第三帝国」の全面的支援のもとに推進された。