広島に原爆が投下された8月6日、米ワシントン州シアトルで行われた追悼の精霊流し(2019年、写真:ZUMA Press/アフロ)

 日本の夏というのは、8月に入るとにわかに広島、長崎原爆の話題が報道され、そこでは原爆が明確な人災であるという明白な事実は基本的に触れられず、8月15日の「終戦の日」に向けて<平和の大切さ>を説くようなテレビ番組やメディア報道が流されます。

 しかし、8月も下旬ともなれいば、夏休みが終わりそうだが子供の宿題は終わっていないとか、熱闘甲子園的なスポーツ報道なり何なり、要するに「普段の報道」に戻って、喉元過ぎると猛暑を感じるがごときパターンを繰り返しているように思います。

 しかし2019年は微妙にきな臭い国際情勢が続くなか、日本列島は暑い夏を迎えています。

 そこで、8月15日は過ぎましたが、地球の反対側で起きた戦争事犯を冷静に見つめ直すことで、暑さを忘れる内容を準備してみました。

 よく「ナチス・ドイツの狂気」と言います。いたいけな子供たちまで容赦なく命を奪った、アウシュヴィッツのガス室は「狂った」行為だったのでしょうか?

 長年指摘し続けていることですが、ナチスの行為は徹底して合理的に計画、実行されており、その実態は「狂気」ではなく「非人間的な合理性」というのが正確と思います。

なぜ人は「原爆の狂気」と呼ばないのか?

 原子爆弾の製造は、単に発狂しただけでは不可能な、高度な物理や化学の新知見がフル活用されています。

 また、その投下は、第2次大戦終結後の来るべき冷戦における東側との駆け引きなどを念頭に、徹底して計算ずくで決定され、様々な「効果測定」もなされた、実験であったことが、すでに広く知られています。

 およそ「正気の沙汰」ではありません。

「あいちトリエンナーレ」で、政治的なコノテーションを含むコンテンツを「感情に対して感情をぶつける」と芸術には素人の人たちが誤解して、とんでもない事故や事件を引き起こしたりするのも目にする2019年の夏。

 一切の感情を滅却した、理詰めで考える「ホロコースト」問題の整理を、欧州の現場からお送りしたいと思います。