開幕3日目で中止となった「表現の不自由展 その後」で揺れる「あいちトリエンナーレ2019」。
8月7日には「うちらネットワーク民がガソリン携行缶もって館へおじゃますんで」とファクスを送った犯人が検挙されました。他方で企画展示の中止に抗議する署名も2万人を超えるとも報じられています。
日頃、「アート」に興味のない人も発言している様子で、メディアに乗る批評家のコメントなどが混乱を極める観があります。
さて、こういうとき、芸術ガバナンスのプロが守るべき鉄則が一つあります。それは「価値中立的」であるということです。
特定の表現を取り上げて良いとか悪いとかいう感想や主張を、ガバナーがしてはなりません。今回が3本目になりますが、私の記述も徹底して「価値中立的」であることにお気づきいただけると有難く思います。
明らかに正面から対立する意見が国民、市民、納税者の間いだに見られる、これが客観的な事実であって、そこで確認されねばならないのはプロセス、本稿に即して要点を先に記すなら「帳簿と執行の決定経緯」を洗い直す必要があります。
政府発表も「補助事業採択の経緯確認」とありました。補助金が関わるということは、つまり、帳簿が問われるということです。
もし仮に、という話ですが、官費を原資とする芸術展の選考を、例えば飲酒しながら、何となく気分で決めていた、などという経緯があれば、当然是正される必要がある。当たり前のことを言っているのにすぎません。
もしも、仮に、展示期間途中から、明らかに警備費用増額の恐れがあったり、防弾チョッキなどの必要があるとあらかじめ分かるコンテンツを意図的に含むようなことがあれば、当然ながら遡及的にその責任が追及されることになると思います。
これは「芸術上の責任」でも「表現の自由」でもない、税を原資とする財務管理と安全な行事に責任を持つ職掌に問われる、全くドライでシビアな追求です。
ツイッターなどで質問を受けたりもするなかで、前稿まで私が当然の前提にしていた事柄が、必ずしも読者と共有できていない可能性に気づきました。
例えば「芸術監督」という職種は「芸術家」のそれではありません。
その人(監督さん)の「作品」が展示されるとは限りません。もちろんアーチストが芸術監督を兼務して、自分の作品を含めたキュレーションを行うということはあり得ます。
しかし、基本的にアーチストと芸術監督=アーティスティック・ディレクターは全く別の仕事です。でも、こんな入口で混乱している人も少なくないようです。まずそこから話を始めましょう。
芸術監督は「管理職」
「芸術監督」というのは「管理職」です。これに対して、アーチストはものづくりをする「職人」です。
いろいろな現場には職人出身の管理職もいるでしょうし、現場を知らないキャリアがやって来ることもある。
今回に関しては、現場経験のないホワイトカラーが、メイン・スポンサー・サイドから要請を受け、派遣されて着任という構図と思います。
ちなみに私自身は畑違いですが、オペラの伴奏助手を振り出しに副指揮者などスタッフとして数年働いたのち、30歳前から芸術監督として公演全体の責任を持つようになった、ノンキャリの「職人」積み上げからスタートして、30代から「管理職」仕事にも、ここ四半世紀ほど携わっています。
今回の「あいちトリエンナーレ」個別の契約詳細は分からないこともあり、ずれがありましたら謹んで修正しますが、以下極めて一般的に「芸術監督」とはどういう職掌であるか、基本から確認してみましょう。