山本五十六 (1941年、写真:Ullstein bild/アフロ)

 第2次ロンドン軍縮会議(1936年)で成果を得られず失意のままロンドンから帰国する山本五十六。ナチス・ドイツはその山本をベルリンに招き、総統アドルフ・ヒトラーとの会見を実現させようと企図していた! 現代史家・大木毅氏が、「悲劇の提督」山本五十六の“軍人”としての能力に切り込んだ『「太平洋の巨鷲」山本五十六』(角川新書)。その一部を抜粋・再編集して、「悲劇の提督」山本五十六にまつわる知られざるエピソードをお届けする。(JBpress)

軍縮を維持し国際協調を保つ決意だった

 第一次世界大戦(1914~1918年)終結後、日米英の三大海軍国は、それぞれに艦隊拡張を企図していた。しかし、大艦隊の建造は経済に疲弊をもたらし、国際平和をおびやかしかねない。

 1934(昭和9)年、列強の建艦競争を抑えようとする、あらたな試みがなされた。ワシントン条約とロンドン条約のいずれも、1936(昭和11)年末に期限切れになるのをにらんで、それらの存続をはかろうとしたイギリスの提案により、再び、ロンドンにて、海軍軍縮会議が開催されることになったのである。この第2次ロンドン軍縮会議に際しての予備交渉において、帝国代表に任命されたのが山本五十六であった。

 おそらく山本は、対米英強硬政策を唱える艦隊派に使嗾(しそう)されていた国粋団体の面々から、強硬路線をとるべしと念を押されただろう。だが山本は、国力不相応な大艦隊保有よりも、国際協調による安全保障を重視する方向に脱皮していた。第2次ロンドン会議にのぞむにあたり、何としても軍縮を維持し、国際協調を保つ決意だったと思われる。

 しかしながら、山本個人の識見とは裏腹に、第2次ロンドン軍縮会議にのぞむ日本政府、あるいは日本海軍当局の姿勢は消極的だった。1934年12月3日、ときの岡田啓介内閣は、閣議でワシントン条約廃棄を決定、29日にアメリカにその旨を通告していた。