なぜ遷都は必要であったのか

 明治新政府のスタートにあたり、遷都がなぜ必要であったのか、その理由を考えていこう。実際の政治を動かしていたのは下級公家の岩倉具視、官位を持たない藩士である大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎、大隈重信などであったが、彼らが実権を執るためには、天皇と直結する必要があった。それには、中間にいる特権階級の上級廷臣(公家)を排除しなければならなかった。慶應3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古クーデターによって徳川慶喜の将軍職辞職の勅許、幕府の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことを決めたが、実は同時に宣言された摂政・関白の廃止は極めて重要である。

 朝廷において、絶対的な権力者は摂政または関白であった。そのポジションには、摂関家しか就くことは許されなかった。三条実美はそれに次ぐ清華家であったが、その差は埋めることが不可能なレベルであった。下級公家の岩倉に至ると、その身分差は言わずもがなである。ちょっとでも頭角を現そうものなら、失脚を余儀なくされる。和宮降嫁運動における岩倉が好例であろう。摂関制の廃止は、岩倉や三条にとって活躍のための絶対条件であった。しかし、それでも問題が残った。廷臣には官位の壁があり、岩倉らの官位上昇が期待された。

三条実美

 一方で、藩士にとっても大きな難問があった。彼らは藩に帰属しており、藩主の存在は絶対であった。諸侯にとって、藩士はあくまでも家臣であり、例えば開明派と言われた松平春嶽でさえ、家臣が新政府会議で廷臣らと同席することを「未曾有の珍事」とするなど、大久保ら藩士レベルのコミットを不愉快に思っていたのだ。

 新政府に出仕した藩士というのは、徴士として藩から新政府へレンタルされた存在に過ぎなかった。藩士が官位を得始めるのは主として明治2年以降であり、諸侯と藩士の完全な上下関係の解消は、明治2年(1869)の版籍奉還、そして明治4年(1871)の廃藩置県を待たなければならなかった。

 また、自分たちの権力の源泉である明治天皇について、彼らが実権を執るには、天皇と直結する必要があったのだが、天皇の在り方を変えた上で、自分たちに近づけたいと考えた。天皇親政のためには、天皇は見える存在であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のような君主に育てる必要があったのだ。これらを解決するためには、新政府を京都(公家社会)から完全に切り離さなければならなかった。すなわち、どうしても遷都が必要であったのだ。

 次回は、大久保の大坂遷都の画策から話を始めたい。